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社説・コラム

『想』 飯田邦夫(いいだ・くにお) 被爆体験 次代に伝える

 1945年8月6日。広陵中1年だった私は、学徒動員中に爆心地から約1・5キロ南東の比治山橋近くで被爆しました。右腕の8割にやけどを負いましたが、82歳となった現在も元気に生活しています。

 63年に大阪に出て、ギフト商品卸の会社を創業しました。被爆の体験を話す機会もなかったし、被爆者ということを隠していました。「思い出したくなかった」というのが本音です。

 2013年、自宅(大阪市淀川区)近くの居酒屋で、主人から「町内の小学校の先生が、体験談を6年生に話してほしいと言っている」と聞かされました。悩みましたが、広島県外の子どもたちにも原爆や戦争の恐ろしさを伝えておかないといけないと思い、引き受けました。以来現在まで6度、近畿地方で小中学生や教職員に、被爆体験を話してきました。

 爆風で約10メートル吹き飛ばされ気絶。気がついた時、付近の建物はなくなっていた。「水、水…」と言ってうつろな目で歩く人や、折り重なる死体をかき分けながら午後4時ごろに京橋町(広島市南区)の自宅に戻ると、ガラスの破片が体中に刺さったままの母が出迎えてくれた―。一日を克明に振り返ります。平和教育の場が多い広島と違い、被爆者の生々しい話に初めて接する子どもたちや先生ばかり。一様に言葉を失い、うつむき、泣きだす生徒もいます。

 講演後は感想文が届きます。全てに「絶対に戦争を起こしてはならない」と書いてあります。原爆投下の事実を知らない人も増えている時代。相手を殺さないと自分が殺される。それが戦争なのです。次代を担う子供たちに戦争の恐ろしさ、悲惨さを理解してもらうことが私の役目だと心得ます。

 実は、1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故で、被害に遭った飛行機を予約していたのですが、当日にキャンセル待ちで1時間前の便に乗り、難を逃れました。原爆と合わせて2度、命を助けてもらいました。命の大切さを、生ある限り、伝えていきます。(近畿広島県人会副会長)

(2015年12月5日中国新聞セレクト掲載)

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