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連載・特集

ヒロシマと建築 岡河貢 <2> 村野藤吾「世界平和記念聖堂」

様式に調和 祈りを包む

 世界平和記念聖堂(広島市中区)は、幟町にあった天主公教会で被爆したドイツ人のフーゴ・ラサール神父(1898~1990年)が計画した。重症を負いながらも一命を取り留めた神父は「多くの子どもたちや市民が死んだ悲しみの中で、何かをしなければならない」という決意から、被爆者の霊をなぐさめる聖堂を建てたいと願った。

 教会は、1902年から幟町天主公教会としてこの地に存在していた。土地は原爆文学の最高峰と評価される詩人原民喜(1905~51年)の実家から借り受けていたという。不思議な縁である。

 建築計画学が専門の石丸紀興・広島大名誉教授の「世界平和記念聖堂」によると、聖堂建設の後援会事務局長を務めた土井正夫の回想として「雪のチラチラ降る日にラサール神父が世界中を廻る決意をした」と、建設支援を求めて奔走した神父の様子を残している。

 匿名での多額の寄付がニューヨークの実業家からあり、48年3月28日の復活祭の日、設計競技の要綱が発表された。最初、村野藤吾(1891~1984年)は審査員の一人として聖堂に関わっていた。審査員団は最終的に1等を決められなかった。2等に丹下健三、3等に前川國男、佳作に菊竹清訓。その後の日本のモダニズム建築をけん引する建築家が入選し、いずれもモダンスタイルのコンクリート建築技術の建築表現では特筆すべき設計だった。

 だが、日本的性格と宗教的、記念的に調和するということにおいては十分な案ではなかった。設計競技の審査を通じ、ラサール神父は信頼を感じた村野に設計を依頼する。村野は当初辞退するが、科学技術に依拠して建築を構想しただけでは到達できない聖堂を全身全霊で実現した。設計料は受けず、奉仕だった。

 近代性だけでは到達できない世界平和への祈りの空間は、コンクリートを用いながら西洋のロマネスク、ゴティック、日本的な窓意匠、鳳凰(ほうおう)像を統合し、永遠の平和の祈りの空間を実現している。(広島大大学院准教授)

(2015年11月27日中国新聞セレクト掲載)

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