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連載・特集

ヒロシマと建築 岡河貢 <1> 丹下健三「平和記念公園」

劇的な空間体験を演出

 丹下健三(1913~2005年)は、日本人として初めて世界的に作品が評価された建築家だ。戦前、旧制広島高(現広島大)で学ぶため、故郷の愛媛県今治市から広島市に来た。

 建築を志したのは、外国の美術雑誌を通じ、フランスで活動していた近代建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887~1965年)のソヴィエトパレス計画を知り感動したため、と丹下は後に語っている。1920~30年代は日本の近代建築の黎明(れいめい)期。丹下は、東京帝国大(現東京大)の大学院生だった戦前、いくつかの設計競技で1等を勝ち取って才能を評価されたが、それらは実現することなく日本は敗戦を迎えた。

 丹下が「第2の故郷」と呼ぶ広島は原爆が投下され廃虚になった。敗戦翌年、放射能の危険も顧みず広島の復興計画に携わった30代の丹下にとって、広島市の平和記念公園(中区)の設計競技への参加は、被爆者への鎮魂と、世界平和への決意を空間として表現するという、建築に魂を込める思いがあったのだろう。

 丹下の提案は、学生のころに感動したソヴィエトパレスが構想の源になっている。数万人が集う広場を想定し、平面上で二つの台形を組み合わせた鼓形の空間を創造した。こうした設計は、来場者に劇的な空間体験をさせる。原爆慰霊碑に向かう人が碑を遠くに感じながら進み、碑前にたどり着くと、原爆ドームが実際の距離より近くに見える。

 この構想は、丹下が戦前に「大東亜記念営造」設計競技に参加し、当時の軍国主義の国威発揚を目指して行われた設計競技案での1等案が原型になった。もしも、丹下の大東亜記念営造が実現していたら、おそらく戦争で破壊されて軍国主義のモニュメントとしてつらい存在になっていたことだろう。

 丹下は運命的な建築家だった。平和への願いを込めたモニュメントとして平和記念公園を位置づけるデザインをし、世界平和の祈りを全世界へと発信した。こうした空間づくりは、ル・コルビュジエにもできない偉業だった。

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 広島には原爆、平和にまつわる建築物が多い。いずれも、建築家たちが自らにヒロシマを問い、手掛けた秀作だ。被爆から70年。廃虚から復興を遂げた街の建築を紹介し、巨匠たちの平和への願いをくみ取る。

おかがわ・みつぐ
 1953年尾道市生まれ。東京工業大大学院理工学研究科博士課程修了。工学博士。84年にフランス政府のプラン・アーキテクチャー・ヌーボー賞を受賞。1級建築士。日本建築学会中国支部会員。2010年4月から広島大大学院工学研究科准教授。専門は建築設計学。

(2015年11月20日中国新聞セレクト掲載)

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