『想』 古葉竹識(こば・たけし) 鮮明な40年前の記憶
15年9月27日
40年がたった今でも、あの試合のことは鮮明に覚えている。1975年10月15日、後楽園球場で相手は巨人。優勝が懸かったシーズン129試合目。試合前、ここまできたら絶対に勝とうと選手に話し、その通り優勝を決められた。広島の皆さんに喜んでもらい、よかったなという思いでいっぱいだった。
いくつもの場面が思い浮かぶ。試合前に三塁側ベンチ裏の通路を通り、グラウンドに出た時の光景。スタンドを埋めたカープファン。三塁、左翼席側だけではなく、一塁、右翼席にもいた。「カチャ、カチャ」と皆さんが必死にしゃもじをたたいて、応援してくれていた。勇気づけられたし、負けられないと意を強くしたことを思い出す。
試合では大下剛史選手のバント安打が、一番記憶に残っている。1―0の九回1死一塁、一塁を守っている王貞治選手を見ると守備位置が深かった。私は大下選手と目が合うと、すっと視線を一塁へ向けて合図を送った。バントすればいい、と。最初は何だろうという顔をしていた彼も理解して、バントを決めてくれた。それが直後のゲイル・ホプキンス選手の3ランにつながり、優勝できたと思っている。
胴上げが始まると、外野スタンドからファンがたくさん飛び降りてきた。気が気ではなく、思わず「危ないぞ、降ろしてくれ」と声を上げていた。でも格別な気分だった。優勝したらこんなにも喜んでもらえるんだ、と幸せを感じた。
10月20日のパレードも一生忘れることはない。原爆で身内を亡くしたり、つらい思いをしたりした人。カープが厳しい時代を支えてくれた人。たくさんの人が沿道を埋め、うれし涙を流していた。支え続けてくれた広島の皆さんに、少しは恩返しができたかなと思った。
ただ残念なのは79、80、84年と日本一になってパレードしていないこと。だから、今の選手にはぜひ日本一になってほしい。そしてパレードして当時の選手たちを招待してくれれば、これ以上うれしいことはない。(元広島東洋カープ監督)
(2015年9月27日中国新聞セレクト掲載)
いくつもの場面が思い浮かぶ。試合前に三塁側ベンチ裏の通路を通り、グラウンドに出た時の光景。スタンドを埋めたカープファン。三塁、左翼席側だけではなく、一塁、右翼席にもいた。「カチャ、カチャ」と皆さんが必死にしゃもじをたたいて、応援してくれていた。勇気づけられたし、負けられないと意を強くしたことを思い出す。
試合では大下剛史選手のバント安打が、一番記憶に残っている。1―0の九回1死一塁、一塁を守っている王貞治選手を見ると守備位置が深かった。私は大下選手と目が合うと、すっと視線を一塁へ向けて合図を送った。バントすればいい、と。最初は何だろうという顔をしていた彼も理解して、バントを決めてくれた。それが直後のゲイル・ホプキンス選手の3ランにつながり、優勝できたと思っている。
胴上げが始まると、外野スタンドからファンがたくさん飛び降りてきた。気が気ではなく、思わず「危ないぞ、降ろしてくれ」と声を上げていた。でも格別な気分だった。優勝したらこんなにも喜んでもらえるんだ、と幸せを感じた。
10月20日のパレードも一生忘れることはない。原爆で身内を亡くしたり、つらい思いをしたりした人。カープが厳しい時代を支えてくれた人。たくさんの人が沿道を埋め、うれし涙を流していた。支え続けてくれた広島の皆さんに、少しは恩返しができたかなと思った。
ただ残念なのは79、80、84年と日本一になってパレードしていないこと。だから、今の選手にはぜひ日本一になってほしい。そしてパレードして当時の選手たちを招待してくれれば、これ以上うれしいことはない。(元広島東洋カープ監督)
(2015年9月27日中国新聞セレクト掲載)