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社説・コラム

『想』 久保田詳三(くぼた・しょうそう) 山下義信氏の功績

 「政治と金」問題が議論される昨今であるが、自らはバラックに住み、原爆孤児のために私財を投じた参院議員がいたことをご存じだろうか。参院広島選挙区で、社会党(現社民党)に所属し、1947年から2期12年間在職して、戦後日本の社会福祉行政に数々の功績を残した故山下義信氏である。

 終戦を迎え、長崎県の五島列島から復員した45年9月、広島の街は原爆で壊滅していた。山下氏は、親を失い、焼け跡をさまよう子どもたちの姿を見て、大いに心を痛めた。「放っておけん」の一心で、同年12月、広島県佐伯郡五日市町皆賀(現広島市佐伯区)にあった県農事試験場跡地に、原爆孤児らが暮らす施設「広島戦災児育成所」を設立した。51歳のときである。

 呉にあった自宅を処分して、育成所の建設や運営経費に充てたという。山下氏は妻と爆心地に近い基町(現中区)のバラックに住んだ。そして、47年、その自宅を足場に第1回参議院議員選挙に出馬して当選。社会福祉行政の充実に全力を注ぐ。私財をなげうつということは、家族を犠牲にすることでもある。そうまでして、孤児の面倒をみたのが山下氏なのである。

 その後、育成所は、個人の運営では限界があるとして、53年1月、広島市に運営が移管され、「市戦災児育成所」となった。さらに、「市童心園」に改称され、67年3月、その役割を終えた。閉園までに孤児を中心に300人以上が巣立った。

 育成所の中には、孤児たちの精神的な支えとなった建物があった。それが童心寺である。毎日、両親への弔いをし、会話する場として心のよりどころであった。その寺も80年7月、老朽化が進んだため、解体された。跡地には現在、地元町内会の集会所「皆賀沖会館」が立つ。

 育成所の歴史と山下氏の功績を後世に伝えようと、被爆70年のことし2月、地元住民で語り継ぐ会を結成した。当時の職員の聞き取りや資料などを集めている。活動はまだ緒に就いたばかりだが、仲間と協力して伝承に取り組んでいく。(童心寺を次世代に語りつぐ会会長)

(2015年9月8日中国新聞セレクト掲載)

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