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社説・コラム

『想』 椋田昌夫(むくだ・まさお) 私の「カープ誕生物語」

 マツダスタジアムとJRの線路の間にこの春、「広島カープ誕生物語」の像が完成した。原爆で親を亡くした主人公たちが、野球を心の糧に生き抜いていく故中沢啓治さんの漫画が題材。子どもたちはカープの帽子をかぶって旗を振ったりVサインをしたりして楽しそうだ。

 子どもが腰掛けているのはコンクリートの土管。それを見た瞬間、記憶が昔に引き戻された。  生まれ育った呉は、カープより先に誕生した阪神で「ミスタータイガース」と呼ばれた故藤村富美男さんの出身地。野球が盛んな土地柄だ。僕らも軟らかいボールと布のグラブで三角ベースをやっていた。中沢さんの漫画の場面そのままの風景だ。

 小学校に上がっていただろうか、近所のお兄ちゃんがラジオで聞いた話を教えてくれた。カープの初代監督、故石本秀一さんが銭湯の番台で、球団への支援を呼びかけたという。「よそのチームは遠征に寝台列車で行くが、カープは3等。これじゃあ勝てるわけない」といった内容だったと思う。

 おやじはサラリーマンだったが、唯一の男の子の僕を年に何回かカープを見に広島へ連れて行ってくれた。広島総合球場(今のコカ・ウエスト広島スタジアム)には、たるが置いてあった。ポケットにあった小遣いの残りを全部入れた。おやじには黙って。見とったんでしょう、帰りに「お母ちゃんには内緒で」と百円札をくれた。お札を握ったまま帰って、お母ちゃんに見つかったこともある。

 マツダスタジアムの「カープ誕生物語」の像の周りには、被爆した瓦とれんがと一緒に路面電車の敷石とレールが置いてある。市民と球団が支え合って復興を果たした足取りを今の子どもに分かりやすく伝えたいと、カープの松田元オーナーから持ちかけられて、喜んで応じた。

 電車は原爆が落とされて3日後に走った。いち早く運行を再開できたのも市民のおかげだ。広島市民にとってカープは今も生活そのもの。その歩みを次代に引き継ぐお手伝いができることを、逆に感謝している。(広島電鉄社長)

(2015年5月10日中国新聞セレクト掲載)

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