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社説・コラム

『想』 重松清(しげまつ・きよし) 40年前の、真っ赤な奇跡

 カープ初優勝を題材にした拙作「赤ヘル1975」は、<赤は女子の色だと思っていた>という少年の独白で始まる。

 いまの時代ならセクハラのそしりを受けかねない、ずいぶん偏見に満ちたモノの見方である。しかし、それは、1975年当時の僕自身の実感だった。

 1975年、カープはルーツ新監督の発案で、ヘルメットと帽子を赤い色にして開幕に臨んだ。もはや歴史用語と呼んでもいい「赤ヘル」の誕生である。

 だが、山口県の田舎町に暮らしていた中学1年生の僕の感想は「赤い野球帽やら、ワヤじゃがな!」――びっくりして、困惑して、小説の中の少年と同様に、なかなか新しい帽子に買い替えられなかった。

 赤は女子の色、派手な色である。オトコは派手ではいけない、と当時の僕は固く信じていた。赤い色のものを身につけるようなキザな奴は、オンナたらしの「たらし」なのだ。

 そんな派手な赤い色が、1970年代後半から80年代のプロ野球界を席巻し、「あの頃のカープは強くてさ……」と我が青春を彩ってくれようとは、1975年のシーズン開幕直後には夢にも思っていなかった。

 不明を恥じるばかりである。

 思えば、終戦から30年が経(た)った1975年は、時代の曲がり角だったのだろう。

 ベトナム戦争が終わり、昭和天皇と香淳皇后がアメリカ合衆国を公式訪問し、沖縄で海洋博が開かれ、その沖縄が返還された時の首相だった佐藤栄作が世を去った。集団就職列車が廃止され、山陽新幹線が博多まで延伸された一方で、蒸気機関車の運行が終わった。なにより広島にとっての1975年は、原爆投下から30年の節目だった。

 その前年、1974年まで視野を広げるなら、長嶋茂雄選手の現役引退や「サザエさん」の連載終了、セブン-イレブン1号店の開業、フィリピン・ルバング島で発見された小野田寛郎さんのことも、忘れてはならないトピックである。一方で、もう1年先の1976年へと目をやれば、中国では周恩来と毛沢東が相次いで亡くなり、建国200年を迎えたアメリカではロッキード事件が発覚している。

(2015年5月1日中国新聞セレクト掲載)

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