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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十四)猿猴橋界隈(かいわい)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島の玄関口になっている猿猴橋は、毛利時代からの橋で長さ三十五間(約64メートル)、幅四間(約7・3メートル)、現在の橋は大正十四年に改装されたものである。橋の名前である猿猴は、手の長い河童(かっぱ)をもじったものらしく、その猿猴がすんでいたといわれるところから、猿猴川ともいわれ、橋名も川の名に因(ちな)んでつけられた。

 最近、筆者は市内の東部で某氏所蔵の「広島市猿猴橋初夏の夕」と書かれた軸物を見せてもらった。この一幅は、長さ二尺(約61センチ)、幅一尺五寸(約45センチ)ぐらいの唐紙に日本絵具で描かれたもので、原爆後の広島では思いがけないそのかみの広島実景である。

 その人の説明によると、明治二十年ごろ、広島を訪ねた従軍画家が当時の実景をそのまま描いたもので、落款の「柳広」は、恐らく無名の画家ではあるまいかとのことである。柳広の名は、広島の柳に因んだような名にも受けとれる。

 「初夏の夕」というタイトルがあるだけに季節感と時間が、そのまま画面一パイに現れている。木橋のランカンには、エックス型の角柱がはめられていて、二人の子供がこのランカンに手足を掛け、橋の下にある舟からの打網を、たのしそうな表情で見ている。

 この橋を通行中の人物は二十数人もいて、初夏を思わす白官服の巡査が二名、このうち一名は立派な八字ヒゲをたくわえている。東側からは大八車を曳(ひ)いている若者、人力車に乗っている女、西側から松原町を目指した人力車上には旅支度の紳士、ふろ敷包を持った老婦人、また僧りょの姿も見られる。

 三人の女の子もいて、それぞれに日本マゲを結い、三人とも赤玉のかんざしを差しているのも、当時の広島がしのばれる。中でも左側にある黒板ベイ二階建の京橋分署も珍らしく、屋上には火の見ヤグラが見られる。

 ヤグラは木製でそのさきには半鐘がつってあるこの分署は東警察署の前身で、この火の見ヤグラにピントを合わせた描写もなかなかにうまい。また、図のはるか左側には台屋町の家が見られ、さらにはるかの中央には広島城がクッキリと夕映に浮き出されている。

 また、背景となっている三滝山が夕焼けに赤く描かれているあたり、この「猿猴橋初夏の夕」の一幅は人物、建物、遠景などがとけ合って、当時のふん囲気をそのままかもし出している。とくに人物の表情、服装が克明に描いているあたり、明治の広島をしのぶには、このうえもない貴重な資料であると思う。

(2017年2月26日中国新聞セレクト掲載)

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