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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十四)猿猴橋界隈(かいわい)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 この橋の往来が激しかったことは昔からのことであるが、特に明治二十七年六月十日、糸崎―広島間に山陽鉄道株式会社が創立されて以来、備後方面からの交通量は多くなった(国有鉄道に切替えられたのは明治三十九年三月からである)。

 橋を東に渡ったあたりを橋の名前どおり猿猴橋町というが、その東を愛宕町という。慶長年間に、この街道に松が植えられ、橋を渡った左側一円までその松原がつづいて、のちに松原町といわれた。この町には四十数本の大松が枝を張って、いろは松原の別称もあった。

 明治初期には西の中島にあった鶴の席という定席に対して、松の席という定小屋も建てられ、新しい盛り場ができた。大正、昭和にかけてこのあたり、すなわち広島駅を中心にした景気は大したもので、赤ちょうちんの飲食店が軒をならべ、その列を縫うように米問屋の数もふえ、大皿に盛られた焼豆腐や、うどん玉箱を揃(そろ)えたのれんのあるうどん屋が多くなって、松原町独得(どくとく)の空気が漂うていた。松原館という活動写真館もでき、間もなく松原公設市場も誕生した。

 それにつけてもあの松原町のいろは松は、汽関車のばい煙で昭和十六年には、ほとんどの大松が枯死して、その名残りは消えた。原爆後の「リビング・ヒロシマ」という英文字の写真帳には、二本の松が焼け残って、その幹には旅館の看板がベタベタと打ちつけられているという、惨めな姿を見せていた。猿猴橋あっての松原町も、今や電光ニュースやネオンに照らされている広島駅前の風景の中に吸収されてしまった。

 なお、猿猴橋の横手には猿ともつかず、河童(かっぱ)ともつかないブロンズの奇獣が、両方から一つの桃の実をつかんでいたが、いかにもこの橋に相応(ふさわ)しい立派な美しいデザインであった。この製作者は塚本町の長尾氏、商品陳列館図案部の阿部技師、山根三二郎、洋画家の増田健夫の諸氏であった。

 また、橋の西詰にあった東警察署の前身であった京橋分署は、明治九年八月に設けられたもので、この分署の前に明神浜にあった火見階梯(かいてい)を移したのは明治十二年五月であるから、「柳広」の落款の画家が描いた「猿猴橋初夏の夕」にみられる分署の二階屋上の火の見櫓(やぐら)の風景は、どうやら時代考証的には明治十年前後の実景であったように思われる。広島を訪ねた従軍画家の作というから、明治十年二月、広島から西南の役に参加した部隊に従軍した画家が広島に残したのかも知れない。

(2017年3月5日中国新聞セレクト掲載)

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