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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十五)がらがら橋付近㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 猿猴橋通りを東にゆくと愛宕町がある。明治十年の広島地図に西愛宕町、東愛宕町と並んでいるが、十五年一月から愛宕町となった。

 もともとこの辺りは道の左右が松並木であって、町家が軒を連ねていたので松原新町といわれたものの、度々の火災で正徳元(1711)年、町民たちで国道の左側に愛宕さんの社を建ててから、愛宕町という名が付けられた。

 また国道の右側にある荒神町も寛保(1741~43年)のころ、しばしばあった火災の影響で荒神の社を建ててより、明治十五年一月から荒神町と名付けられた。前稿の稲荷町の場合でも享保十八(1733)年以来、稲荷を火事の守護神として稲荷町といったように、広島の町はそれぞれ町民の安全息災を願った守護神の名がそのまま町の名になっている。

 もっとも東の方にある蟹屋町の町名は、かつてこの土地に五郎右衛門という者がいて、蟹を捕えることを家業としていたために蟹屋という名があったと言われるが、一説には福島正則の陪臣であった可児才蔵の持地から、可児を蟹にもぢって町名にされたとも言われている。

 可児才蔵と言えば岩鼻へ往く矢賀町街道にあたる万歳峠の一角に「可児才蔵の墓入口」という古色蒼然(そうぜん)たる石柱がある。

 あのころ、十五、六歳ごろの少年の間に絶対な人気のあった「立川文庫」のことは、四十歳以上の広島人には懐しい思い出であろう。細活字で綴(つづ)られた赤表紙ポケット型の小冊子で、言うならば少年向の講談本である。熱心な少年愛読者はツイにこの細活字に災されて目をやられた。

 この文庫のうちでも一番人気のあったのは「真田十勇士」の忍術使い猿飛佐助や霧隠才蔵で、同じ才蔵でも豪勇をうたわれた「蟹江才蔵」はその名前の珍らしいことが私たちの記憶にも残っていた。

 その少年読物の主人公であった蟹江才蔵は広島のゆかりのある可児才蔵のことであることを知ったのは可なり後のことであった。一度この勇士の墓を訪ねたいと思いながら、ようやく昨年の夏、片側(かたこう)町の万歳峠に登った。

 可児才蔵は尾州の生れで、少年時代からの武勇伝は有名なもので豊臣秀吉の重臣として、しばしば戦功を樹(た)てている。戦場で討取った敵側の首へ、笹(ささ)の葉を差して目印にしたという話もよく知られている。戦国名将鑑のさし絵にもそのグロテスクな光景が描かれている。

(2017年3月12日中間掲載)

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