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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十五)がらがら橋付近㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 可児才蔵は後に、広島藩主福島正則の陪臣として広島城に出仕すること数年、関ケ原の一戦を契機に正則と意見が合わず、ついに浪人して矢賀の万歳峠に引きこもった。亡び行く豊臣氏を見るに忍びず、煩もんの末、武門を捨てて仏道に帰依したが、次のような遺言をして自刃した彼であった。

 時まさに慶長十八(一六一三)年十一月二十四日、その遺言として伝えられているのは次の言葉である。

 「我死さばこの地に埋葬してこの墓石を建てよ。没後三日内に墓の背に竹を生ずるならん。首より上を病むものはその竹の葉により利益を願えよ。必らず平癒を得さしめん。竹の青々たる間は霊験あらたかなり」

 果して墓の背後に竹が生え、現在でも墓の回りには竹が茂っており、昔から歯痛のとき、この竹の葉をかめば痛みがとまるといい伝えられたものである。なお、墓石の文字は平がなで、才蔵の一人娘常子の筆跡ともいい伝えられている。

 近くの尾長町にある国前寺の稲生武太夫の墓や、彼が化物からもらってこの寺に納めたという「宝槌(ほうづち)」の伝説(この木槌は長柄のもので、二十年ごとに開帳され、筆者も二度ばかり見たが、槌は椿(つばき)の木で作られているという)は、古い広島人から今以(も)って言い伝えられている。

 可児才蔵の旧跡については、ほとんど忘れられているので、かくは蟹屋町名に因(ちな)んで書き添えた次第である。

 なお、表題の「我羅々々橋」であるが、この橋は愛宕町の国道にある石橋で、明治二十三年に板橋から石橋に架け替えられた。もとより毛利時代からあった、「がら竹」という小竹をたばねた竹橋で、竹の名にちなんで「がらがら橋」といわれた。

 一説には、この橋を渡るときにがらがらという音を立てるので、そのようにもいい伝えられている。そして橋の下を流れる川は、二葉の里から流れてくる古川につないでいるために、この流れのあたりを明治十年ごろまで古川村と名付けている。

 この「がらがら橋」については、かねて祖母から次のような昔話をきいている。もちろん維新前のことであるが、岩鼻あたりにお仕置場があった。囚人は例によって町中を裸馬に乗せられて引回された。祖母は子供のころ、恐いもの見たさにこの行列について往った。

 すると役人は、この橋の側にあった茶店の前で馬をとめて、そこで囚人が欲しいというものを食べさせた。間もなく行列は松並木の道を抜けて東の方に動きはじめ、やがて万歳峠を右に曲ると囚人の姿は見えなくなったとのことである。

(2017年3月19日中国新聞セレクト掲載)

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