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入市被爆の体験生々しく 元中国新聞記者の浅野さん証言 広島

 多くの被爆者を取材した元中国新聞記者の浅野温生さん(81)=広島市南区=が今月初め、日本生活協同組合連合会(日本生協連)主催の「ピースアクションinヒロシマ」で入市被爆の体験を証言した。全国から集まった組合員約50人に、被爆者の苦しみや被爆直後に歩いた焼け跡の様子を生々しく語った。

 広島県立二中(現観音高)2年生だった浅野さんは、原爆投下前日の1945年8月5日、現在の平和記念公園付近で建物疎開の作業をした。翌6日は上蒲刈島(現呉市)の母の実家に向かっていて被爆を免れた。しかし、その日、二中の1年生322人が同じ場所で作業中に被爆し、全員が死亡した。

 7日、広島市内の自宅に帰り、火がくすぶる廃虚でおびただしい死体を見た。防火用水の中で、立ったまま黒こげになった数人の死体。年老いた女性が背負っていた赤ん坊の死体は、下半身が白骨になっていた…。

 新聞社入社後の被爆20周年にはキャンペーン報道に参加。多くの被爆者の生の声を取材した。「今の平和は戦争や原爆で死に、傷ついたいけにえによる平和ではないか。生き残った者は身代わりの犠牲者に何をしたのですか」「被爆したというだけで結婚や就職が不利になる。一度犠牲になった被爆者がなぜ20年も苦しみ続けなければならないのか」

 浅野さんらの報道は新聞協会賞を受賞。活字によって被爆者の代弁をしたという自負もあって、自身の体験は語ることがなかった。だが、事実が正確に伝わっていない現状に、7、8年前から証言活動を始めた。

 「二中の1年生は1日違いで私たち2年生の身代わりになって爆死した。死者に申し訳ない」と言葉を詰まらせる浅野さん。原爆資料館に展示されている二中の生徒の遺品の学生服も「実際は膿(うみ)や血にまみれ、死臭がしていたのを、きれいに洗って仏壇に供えたものだ」と述べ、被爆の真実をより深く理解してほしいと訴えた。(冨沢佐一)

(2013年8月19日朝刊掲載)

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