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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十六)旧東練兵場㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 毎度ながら明治十年に刊行された科部市助著の「広島細見縮図」によって話をすすめてゆく。

 いろは松のならんだ松原町から尾長山東照宮への一本筋は、その両側に桜が植えられて桜の馬場とも言われた。また泉邸の対岸一円にも桜が植えられていたという印がつけられて、遠く饒津(にぎつ)神社の左側から神田橋近くまで同じ印がついている。

 そして東照宮への一本路の両側には大須賀村と書いてある。明治十五年一月、明星院村、古川村、尾長村の一部が合併されて大須賀村一本の名になり、さらに四十年三月に村から町となった。

 この町の起りは、昔このあたりが太田川の流れの洲(す)であったところから「大洲」後には「大菅」(おおすが)となまり伝えられ、さらに大須賀となったといわれている。東照宮のみられるあたりの大須賀村と尾長村の一部が、明治二十三年一月から陸軍の東練兵場として使用された。

 広島人には、この練兵場についていろいろな思い出がある。射的場での射撃や、尾長山中腹をめがけた着剣突撃、山に近い沼沢地をほふくしながら、赤腹の「いもり」を心にもなく踏みつぶした野外練習もあった。

 射的場には大きな赤旗が掲げられ、山にこだまする射撃の音はなかなかに忘れられないが、花見時分の和やかな旧練兵場風景にも郷愁が湧いて来る。

 また、広島駅での列車入れ替えの鉄道線路が鶴羽根神社と饒津神社間を抜けていたのも、明治二十八年ごろのことで、そのごろの機関車の進行光景がそのまま石版刷になっている大須賀風景が、いまもって好事家に広島資料として保存されているのも懐しい。

 広島で飛んだ最初期の飛行機の話がある。場所はモチロン東練兵場であった。もっともその前の大正元年、西練兵場の大手町通り入口近くに、飛行機を見せる板囲いが出来た。私たちは学校の先生に引率されて出かけたことを思い出す。

 飛行機は梅田式の複葉式で、大きな木製のプロペラが後につき、血色のよい口ひげをはやした操縦士は、前の座席に腰をおろして丸型のハンドルを握っていた。飛行機の側には一人の解説者がいて、いろいろと説明していた。その度ごとにハンドルを回すと、後の翼が前後左右に動いていた。

 やがて係りの若者が太い綱を握り、説明役の彼が十数回、プロペラを回すと、トタンに爆音を立てて飛行機が前に滑走した。板囲いの中を二十数回も動いた飛行機は、やがて後の機翼に取りつけられた綱に引き戻されて、もとの位置に帰って来た。これで観覧は一回の終りである。

(2017年3月26日中国新聞セレクト掲載)

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