×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十六)旧東練兵場㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 次は坂本寿一氏の公開飛行の話であるが、「がんす横丁」の広島人は、いまでもそのときの話をよくする。筆者もその光栄ある目撃者の一人である。

 大正四年の夏のことだったと思う。場所はモチ(もちろん)東レン(東練兵場)であった。坂本氏の広島での公開飛行は、どのような人たちで企画されたかは知らない。当時陸軍では徳川大尉、海軍では奈良原技師の初飛行が、全国的にセンセイションを起した。そして民間の坂本氏は大阪での公開飛行に成功していた。それが広島での飛行となった。

 あの日は日曜日であったと思うが、朝の九時近くには多数の市民がこの東練兵場に詰めかけ、遙(はる)かの二葉山の中腹も人で埋まっていた。筆者は騎兵隊近くの道まで来ると、すでに梅田式の飛行機と同型の複葉機が、分列松よりはるか南方、騎兵隊正門に向けて置いてあった。

 物すごいプロペラのうなりがして、あたりの草がプロペラの風に薙(な)ぎ倒されていた。やがて機首が軽く浮き上ると、低空のまま西の方の民家の屋根近くすれすれに飛び去った。

 すると間もなく、大須賀町裏通りの民家の上に落ちたという噂(うわさ)がパッと伝わって、見物人はその方向へ押しかけた。筆者もそこまで来ると、飛行機は機首を西に向けたまま、屋根の上に擱座(かくざ)していた。

 その屋根を見ると、東高等小学校一年生同級の坂田君の家であった。坂田君の家は鉄道官舎で、栄橋を東に渡った小路を左に曲ると、大須賀町第二踏切がある。ここを抜けた突き当りの家がそれであった。

 幸い坂本氏はケガをしなかった。そして屋根のうえに墜落した坂本機の遭難写真は、当時の少年雑誌「少年」や国際写真帳のページを飾った。坂本機の損害は大したことなく、一週間後には再挙をはかることになった。

 気流の関係で早朝に飛行をやるというので、七時ごろから東練兵場に出かけると、果して朝やけにあたりが赤く照らされている二葉山を背景に、今度は東の方向に機首を向けた。間もなく爆音とともに滑走、そして高く浮きあがって、分列松の上空百メートルあたりを、十五分間にわたって快調な旋回飛行をした。思わず山のあちこちからも拍手がわいた。

 印象的であったのは、筆者の近くにいた六十歳くらいの田舎から出て来たらしい老人で、チョンマゲを結ったままの姿でこの飛行をみていた。いまでもあのチョンマゲ姿を思い出す。なお、同じ東練兵場で行われた「鳳(おおとり)号」の飛行については記憶がない。

(2017年4月2日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ