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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十七)西練兵場㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 旧西練兵場はもともと明治六年三月、広島鎮台の練兵場として設けられたものが、明治二十三年一月の東練兵場の出現に対して、西練兵場と言はれるようになった。ここでの思い出を書けばいまさら軍都広島のノスタルジアだとおしかりを受けるような気がするので、叙景描写はスケッチ程度にしたい。

 まず明治三十九年三月以来の招魂祭風景であるが、年に一度、あのわずか二日間に全国中のタカモノ(興行)が集まっても、親分衆との間に一度としてトラブルが無かったと聞いている。またあの原爆の日、この一角でたおれた人たちの姿を思い浮べると、「風と共に去りぬ」の一場面でスカーレット・オハラが多数の戦死者の中に佇(たたず)んでいる感懐にも増した原爆への怒りが出てくる。

 地獄の絵や地獄の文学をいつまでも看板にかかげるという意識が悲しまれるという人には、この西練兵場もまた消えて失くなれであろうが、日本人で最初の宙返り飛行をやった山県豊太郎君のことを思うと、なかなかにこの練兵場は忘れられない。

 山県豊太郎君の生家は、東警察署側にならんだ京橋町にあった。家業は錻力(ぶりき)(板金)職で明治三十一年、百太郎氏の三男として生れ、段原小学校から東高等小学校に入学した年の大正元年十月二十八日、東練兵場で奈良原氏の飛行機に同乗したのが機縁となり、東高を卒業した十六歳の春には、厳父を説得して当時民間飛行研究所を経営していた鳥飼繁三郎氏(豊太郎君の伯父、猿楽町出身)を頼って上京した。

 そして伯父の紹介で、白戸等之助氏や伊藤音次郎氏から操縦技術の手ほどきをうけた。かくて大正五年、十九歳のとき、米国から取り寄せた古物の材料を鳥飼氏から貰(もら)いうけて自分の飛行機をつくった。この自作機は、氏神の鶴羽根神社に因(ちな)んで「鶴羽根号」と命名した。間もなく彼は、千葉県稲毛海岸での試験飛行に見事成功して、若き鳥人山県豊太郎の名が航空界にクローズアップされた。

 斯界(しかい)の先輩、佐伯卓造氏(牛田町在住)が宙返り飛行家スミス氏を広島に招いて西練兵場で公開飛行をしたのは大正四年と思うが、坂本寿一氏の飛行につぐスミス氏の妙技には広島人は驚かされた。そのスミス氏から宙返りの法を聞いた彼は、独力で高等技術を習得し、大正八年の夏、青山練兵場で五十馬力の自作機鶴羽根号を操縦して日本人として最初の宙返り飛行に成功した。かくて広島出身の彼の名は、一躍空の花形として全国に名声をとどろかせ、間もなく彼は鶴羽根号をかって、郷土広島の空でその妙技を公開することになった。

(2017年4月9日中国新聞セレクト掲載)

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