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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十七)西練兵場㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 はっきりした月日は思い出せないが、大正八年の新緑のころであった。憲兵隊の西口門に近い一角に、全身白塗りの鶴羽根号が置かれた。空輸されてきたのか、このあたりのことも忘れてしまったが、スミスが広島で飛ばしたものよりも、はるかに小型のみるからに軽快な飛行機であった。

 城壁に植えられたアカシアの木には、山県豊太郎君の飛行のハツラツさを思わすような若葉がすくすくと延びていた。鶴羽根号の搭乗席の両側には鶴が翼をひろげて飛んでいるマークが描かれていた。

 午後二時ごろであったか、あたりの見物人の整理がつくと、白い航空服に白航空帽の山県飛行士は軽々と搭乗席に納まり、やがて上半身をバンドでかためてメガネをかけると、エンジンのスイッチを入れた。途端に爆音とともにあたりの砂を蹴ちらし、次の瞬間、十一連隊南門の方向に三百メートルも滑走したと思われるころ、複葉小型の鶴羽根号は宙にういて高度を上げて行く。

 当日の記録には高度千五百メートルとあったと思うが、かなりの高さから下降の姿勢をとった飛行機は、機首をあげてゆるやかな宙返りをした。二回、三回と重ねて九回も連続宙返りが行なわれた。スミス機とは違った軽快さがあったように覚えている。着陸して搭乗席から降りた山県飛行士は、見るからに白面の青年であった。

 彼は翌大正九年の春、帝国飛行協会主催の東京―大阪間無着陸往復飛行に自作の恵美号(百五十馬力)で、六百三十マイルの全コースを六時間四十分でしょう破して一万円の賞金を得た。次いで行われた朝鮮半島の大邸(テグ)への渡洋飛行にも成功し、わが国航空界に金字塔を樹(う)ち立てたが、同じ年の八月二十九日、千葉県津田沼での高等飛行教練中、突如恵美号の右翼が折れ、二十二歳を一期に墜落惨死した。

 わずか高等小学を卒業したばかりの力で難解の飛行機と取組んだ彼の輝かしい業績は、今もって日本航空史の第一ページを飾っている。

 昭和十六年の航空記念日に、当時京橋東詰の小路の家で余生を送っていた厳父百太郎氏を訪ねると、同氏は豊太郎君の写真を前に「親の口からそう言っては可哀想(かわいそう)ですが、今少し生きてくれたらと、いまでも飛行機を見上げるたびに、いろいろなことを思い出します」と言われた。

 鶴羽根神社の境内には、彼の半身銅像が建てられた。上田直次氏の作品で、左手を腰に当て、右手に航空眼鏡を持った温容な姿であった。思えば戦争中の金属回収令であの銅像も犠牲にされたが、爆心地の慈仙寺には昔ながらの「飛行士山県豊太郎の墓」が残されている。なお、同寺に納められていた破損した恵美号のプロペラは、彼のけんらんたる短い一生を語る記念物であったが、原爆はこの思い出をも焼いてしまった。

(2017年4月16日中国新聞セレクト掲載)

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