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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十八)両練兵場のこぼれ話㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 フランス将校はプロペラの回転と同時に、この飛行機を取り囲んだ見物人に、大きく手を振って「前を開けろ」と大声でどなっていた。やがて飛行機は東練兵場中央へ滑走した。ダブルの翼は真紅に塗られ、操縦席は黄色で、そのボディには大きな黒ネコのマークが描かれていた。

 飛行機はやがて機首を東に向けて、飛びあがると、アッサリと東の空に姿を消した。一応広島の上空を旋回飛行するであろうと期待した市民は、さすがに失望した。今でもあのフランス人は、エチケットを知らない将校であったと思われている。

 例のジャピー氏がパリ―東京間の無着陸飛行を企画して、福岡県下に墜落したのは、それから十年後のことである。

 また満州事変前、愛国第一号、第二号が現地への空輸の途中、同じ練兵場に翼をやすめた。いざ出発というときに、当時の寺内師団長が、観衆の前で軍帽を振ったことも思い出される。九一式戦闘機が公開されたのもこの練兵場で、思えばすべては昔の夢であった。

 飛行機以外の西練兵場でのこぼれ話であるが、大手町入口にあった砲弾型のモニュメントは明治二十七、八年役(日清戦争)戦死者記念碑で、碑身には戦死者七百二十六人の氏名が刻まれて、同型のものが名古屋市にも建てられていた。

 また同じ練兵場の東端には、北清事変記念碑が明治三十九年に建てられたが、前面には新海竹太郎氏の傑作といわれる彫刻銅板がはめられ、台石には千二百八人の戦死者・病死者の氏名が刻まれていた。いまやこれら二つの記念碑も姿を消してしまった。

 なお憲兵隊正門前の一帯は、明治二十七年九月二十二日の詔書により、第七回帝国議会が召集された思い出の土地である。その一角にはかなり大きな松が枝を張っていたが、この松は(当時中国新聞社社長の)山本三朗氏が大正元年八月、国会記念松として植えたものであった。鉄のツメ(原爆)はここでも一切のものを焼いてしまった。

(2017年5月7日中国新聞セレクト掲載)

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