×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十九)京橋川の御供船(おとぼん船)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島の御供船風景も、なかなかに忘れられない。このおとぼん船(「芸州厳島図会(ずえ)」にはおんともぶねと書いてある)の行事は、そのものが「がんす横丁」の人たちにつながったお祭で、東部では京橋川、西部では本川がその水上舞台にされていた。

 天保十三(1842)年の「芸州厳島図会」にも「六月十六日夜広島本川口の図」や「御供船川口を出る図」「六月十七夜管絃の御船地御前より還幸の図」「同夜海上光景」「紫雲山誓願寺(の管絃)」と、宮島の管絃祭について、そのかみの盛況さが克明に描かれている。

 また、大阪人の渡辺莱之助と京橋町の画工正木安兵衛で明治十六年十月に刊行した広島の「名所しらべ」にも、管絃祭の前奏曲とも言われる京橋川の御供船風景が刻まれている。ケンランたるおとぼん船が五艘(そう)も華々しく飾られて、橋上、水上ともに人の波に埋められた情景が描かれているが、筆者は京橋川に二艘の御供船が浮いた光景や、明神浜で玉取り祭が行われたことを覚えている。

 筆者の記憶をたどる前に、同じこの御供船に思いをはせた詩人原民喜氏が昭和二十五年十二月七日付の本紙に「広島の牧歌」として寄せた一文を参考にしたい。

 「昔、管絃祭の夜には京橋の明神の浜に、おとぼん船がやって来た。橋の上にはぞろぞろと人が犇(ひし)めきあって、船上で行はれる十二神伎を見てゐる。かがり火が水に映り、衣装の金糸銀糸が火に照らされて―それを見てゐると子供の私には、これはまるで夢幻の世界だった」

 これは広島をこよなく愛した原民喜氏の思い出の一文であるが、恐らくはこのおとぼん船風景は、永久に復元されないであろう。

 東部の某氏が所蔵している長巻物の広島風景の一駒(こま)にも、極彩色の御供船が描かれている。また、宮島の宝物館にも、お管絃とおんとも船を描いた豪華な屛風(びょうぶ)がある。

(2017年5月14日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ