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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十)賀葉多連(かはだれん)の囃子(はやし)船㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 京橋川に御供船が飾られる夜は橋のランカンに町名入りの大提灯(ちょうちん)が立てられ、また、民家の屋根高く、いわゆる宮島さんへの「おあかり」といわれる「高どうろう」が掲げられて、錦絵に見られるような古風な夜景が見られた。

 この「高どうろう」は、家がそれぞれの定紋を入れた弓張提灯を屋根のうえに立てた竹につったもので、なかには、一本の竹に横に長く、十数個の弓張がつってある家もあった。

 思えば、あのころの広島市民は各家に一つ二つの定紋入り弓張提燈を用意していた。古い家では入口正面の壁に白色の紙箱が並べられ、その箱には黒色の定紋が描かれていた。平素はこの箱のなかにこの提灯が納められたもので、さすがに原爆後のヒロシマにはみられない時代的アクセサリーであった。

 また、浮城のような御供船に対して、この京橋川をより下った囃子船のことも忘れられない。

 明治四十二、三年ごろである。平塚土手下に住んでいた河田兵衛という篠(しの)笛の師匠が、自分の弟子や同好者たち二十数名で御供船風景に色彩を添えようと、京橋川に囃子船を出そうということになった。屋形船を提灯や造花で飾り、船の舳先(へさき)には「賀葉多連」の扁額(へんがく)を掲げてデビウした。

 三味線、太鼓、笛、すり鉦(がね)などでの囃子船が、満潮時の京橋川を流したが、水の面に反響したこの囃子が両岸に伝わる風情も、かつての広島の牧歌の一コマであった。

 この囃子船は、毎年、御供船の京橋川を浮遊して人気をあつめたが、後には住吉祭りの本川にもその姿を見せた。

 この賀葉多連も、各自が金を持ちよって立派な宮島さん定紋入りの提灯をつくり、立派な浪幕までこしらえ、お囃子連中は揃(そろ)いの浴衣、黄色の手拭を首にかけ、ひとかどの賀葉多連タイプを誇った。しかしリーダー役の河田兵衛はいつも若い連中の陰に隠れて、すり鉦を叩(たた)いて、お囃子の拍子をとった。

(2017年5月28日中国新聞セレクト掲載)

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