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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十一)街角にあった鉄の冠㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 フランス映画「黄金の冠」ならぬ鉄の冠が、あのころの平塚町の街角にあった。この冠は戦国時代の武将が被(かぶ)っていた、広島の上水道史を語るには恰好(かっこう)の記念物である。

 この水道栓を中心とした町の人たちは、それぞれ右手に重い鉄製のセンを持って、あの鉄カブトの横にある穴に差し込む。トタンに水圧そのままの水が噴き出してくるあたり、広島東部の風情が汲(く)みとられた。

 あの大雁木(がんぎ)下の鉄の冠はいつの間にか姿を消したが、この平塚土手下一円の裏街には、「八やん」といわれた物乞いが、両手に空かんを持ってよく現れた。ときどき地上に額をたたきつけて、クルリと軽くもんどり打って倒れる。腰のあたりのキモノはすり切れていた。見るからにふびんな彼であった。

 いつもこの横丁の人たちは、彼の空かんに食物を入れてあげた。この「八やん」はいつもこの鉄の冠のあった近くをさまよい歩いたが、いつとはなしに彼の姿は見られなくなった。

 この街角を真直(まっす)ぐ南に行くと、左側に平塚の金毘羅(こんぴら)さんがある。筆者たちが子供時代には、この社は右側にあったもので、金時サン(金太郎)が持っていた大斧(おの)の印がある提チンも思い出される。

 社殿右側の石には「昭和二十年八月六日原子爆弾に依(よ)り炎上」の文字が刻まれてあり、終戦後の社殿と思われる。別の石柱には昭和二十三年十二月再建、世話人安田寿夫、湊岩次郎など二十四名の名前が刻まれている。

 また、明治四十四年十二月と刻まれた石鳥居がそのまま二度の御用を果たしているのも珍らしく、シンガポール陥落と刻まれた九本の幟(のぼり)石もそのまま残されている。このあたりに製針工場があって、第一次世界大戦当時はなかなか活気のあった平塚町であった。

 ハレーすい星が現れた明治四十二、三年ごろのことと想(おも)うが、不思議にこの界隈(かいわい)に火事がつづいて、一時は火の鳥が火をくわえて金毘羅さんの社を中心にこの町内を飛び回ったという、いかにも見て来たような話が言い伝えられた。ところが後にこの火の鳥の正体は、人の仕業であったことが判(わか)った。

(2017年6月11日中国新聞セレクト掲載)

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