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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十二)弓矢小路、白旗小路、ネヅミ小路、火の見小路㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 御供船のキモノを持っている町と言えば、この橋本町も昔から豊かな町であった。京橋の根もとにある町という意味で橋本町と言われた。

 国道筋だけに、京橋を控えて人や車の往来も激しかった。円太郎馬車も元気なラッパを鳴らして走っていた。上柳町と下柳町の町界線はこの橋本町の表通りで、上柳町角にあった白塗りのしょうしゃな三階建は、西の片山、東の小早川と言われた小早川写真館であった。

 立派なショウ・ウインドウに片山が軍人写真を出したのに対して、ここではもっぱらミス広島級の麗人の写真や、明るい表情の赤ん坊の写真が並べられていた。下柳町に入っては左に一畑薬師があり、右には金比羅の小社があって、再び左には明神小路があった。

 橋本町の国道を左に曲ると、そこが石見屋町である。そのかみ石見屋某が住んでいたところから、この町名が出来た。

 この町にあったある薬屋には、木製の大看板が店先につられて、その部厚の板には漢方薬の名前が刻まれていたのも懐しい風景だ。金粉やうるし塗りの立派な看板であった。町内の各店とも、昭和初期まで明治以来の香りが残っていて、店先にあった勘定場には格子づくりの囲いが立てられていた。

 そしてこの界隈(かいわい)から、不思議と芸能人が出ている。全国的に知られているのんき節の元祖、石田一松代議士もこの土地の出身で、オペラ全盛時代の浅草のファンをわかせたテノール歌手、大津賀八郎君(のちに新天地で青い鳥歌劇団を結成し、郷土にオペラを伝えた)もだ。

 また、新国劇にいた野添健君も石見屋町の出身で、月形半平太での刀剣師一文字国重の役は劇団結成以来、沢田正二郎から大きく買われていた。今もって活躍している宝塚歌劇の堀正旗も、同じ石見屋町の出身で野添健の実弟である。

 この町を右に入った旧幟町小学校正門前までの小路を「弓矢小路」というが、昔はこの小路に弓矢で仕えていた武士が住んでいたところから、その名が伝えられている。いうならば射手の住んでいた小路であろう。

(2017年6月25日中国新聞セレクト掲載)

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