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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十二)弓矢小路、白旗小路、ネズミ小路、火の見小路㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 幟町は「御旗の士」が住んでいたところから、その町名がつけられた。御旗の士とは浅野藩の旗印を任された武士のことらしく、別に白旗を担当した武士が住んでいたと言われる「白旗小路」は、上柳町中央から上幟町、上流川町、鉄砲町の真ん中を抜けて八丁堀に出た東西の小路を言った。なお、幟町の別名を昇町とも言った時代があったらしい。

 小路ついでにこの界隈(かいわい)にあった珍しい小路名を拾うと、東引御堂町を下幟町へ抜ける道路の一部を「猫屋小路」と言った。広島とは昔からお馴染(なじみ)の豪商、猫屋九郎右衛門の流れを汲(く)む商人が住んでいたことからこの名が伝えられたもので、この猫屋小路の右側には袋小路があって、この抜けられない小路を「ネズミ小路」と言った。

 これら猫やネズミの小路は、明治三十年の広島地図にその小路名が残っているが、このあたりは現在電車道になって小路ならぬ広場の様相を現している。

 なおあまりにも古くて、いまさらの話ではあるが、このあたりに「火の見小路」があった。これは東引御堂町から銀山町を南に抜けて薬研堀に通じた小路で、明治末期から大正初期にかけて全盛をうたわれた大衆食堂―というより、赤提燈(ちょうちん)のうどん屋、一ぱいめし屋のあった一の谷に抜ける小路であった。

 この小路の縁起を調べてみると、広島に初めて火の見やぐらが出来たのは享保十五(一七三〇)年十月のこと。話としてはかなり古い。

 記録によるとこの年十月、慈仙寺鼻に一つ、銀山町に一つ、西白島町に一つ、都合三箇所の火の見やぐらが立てられたが、どうしたワケでか、寛保三(一七四三)年十一月にはこれらの火の見やぐらは姿を消した。

 当時の名残りとして、銀山町から薬研堀へ出るところ、東引御堂町から一の谷あたりを火の見小路と言い伝えたものであるが、小路の話となると、いろいろとイワレがあって城下町特有の挿話が残されている。

(2017年7月2日中国新聞セレクト掲載)

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