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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十三)鉄砲町界隈(かいわい)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 あのころ石見屋町につながる山口町は和家具屋が軒を連ねて、タンス、長持、衣桁(いこう)、鏡台を並べた商家の町であった。町名のいわれについては、銀山町とともに、ハッキリした資料が残っていない。株式街という別称のある銀山町には、明治二十六年十二月、長沼鷺蔵氏が、資本金十一万円で株式組織の米綿取引所を創立して、その後の気配は今も伝統のうちにうかがえる。

 火の見小路につながる薬研堀は下柳町と同じ濠(ごう)(堀)があって、広島のシンボルであった柳がその濠の近くに植えられていた。東遊郭の出来たのは明治二十八年であるが、それまでにもこの界隈は花街として賑(にぎ)わっていた。八十年前の薬研堀風景を知っている若山シナさんの話によると、なかなかに賑やかな盛り場を現出していたという。

 町内の禅昌寺には、維新前大手町六丁目に町道場を開いていた貫心流の達人、剣豪細呑空の墓がある。呑空は別名を六郎と言い、鬼六郎ともいわれ、いまでも六丁目の小路を細の小路と言う。

 また、剣術家坂貞吉、医者小川白堂、算術学者小松鉄斉たちの墓もあり、大正末期から昭和にかけ、安来節華やかなりしごろには、いつもこの寺が安来節大会の会場になった。

 一足飛びに、最近白島行の電車道になった鉄砲町にゆくと、この町のあたりは浅野藩の鉄砲射撃場があったところから、この町名になった。幟町と同じように鉄砲方の住んでいたところで、町の一角には鉄砲の形をした小路もあって、鉄砲小路と言った。

 ついでながら平田屋川にそうた鉄砲屋町は鉄砲鍛冶(かじ)工が住んでいた町で、同じ鉄砲に関係にあった町名には的場町がある。このあたりに源蔵という者が住んでいて、的を造ることを業としていたことから、その町名が出来たと伝えられている。

 鉄砲町の出身者には、下瀬火薬の下瀬氏がある。同氏もおそらくは鉄砲方の流れをくんだ広島人であったかも知れない。

(2017年7月9日中国新聞セレクト掲載)

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