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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十三)鉄砲町界隈(かいわい)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 現在は電車道の京口門停留所前にあった家には、薩摩琵琶の足立芦光氏が住んでいた。同氏は同じ広島出身の筑前琵琶、豊田旭穣女史とともに、大正中期から昭和初期にかけて全国的にその盛名をうたわれた名手であった。

 同じ鉄砲町の一角を東西に通り抜け、上流川町、京橋筋北側から八丁堀にかけた小路は「梅の木小路」と言われ、「土井の家」という小字もこのあたりである。

 上幟町と上流川町との間にある白旗小路の中央から南に入る小路を藪(やぶ)小路といった。小町にあった藪小路同様、ユウレン(幽霊)が出る小路として、当時の広島人から「出そうで出んのが藪小路のユウレン」という俗謡ではやされた小路である。鉄砲町と京口門が相対したあたりの堀を「源太堀」といった。

 次に鉄砲町の隣りは上流川町であるが、この町の東側を流れた川に因(ちな)んで上流川町といわれ、その下流はそのまま、下流川町といわれた。

 この流れの水源は、旧藩主浅野家の別邸、泉邸の池から流れ出た水で、正徳年間(一七一〇年代)には今川ともいわれた。流れる水がキレイであったために流川と呼ばれて、そのまま町名にされた。

 もっとも筆者たちの記憶では、ドブ川であって、清水とはおよそ似ても似つかぬ汚水であった。さすがに市当局もこの汚水には手を焼いて、大正二年、下水道工事を起して東側一円の溝を埋立てた。

 この泉邸は、後に広島市民のために行楽の土地として開放されたが、明治大正年間は二月の初午(はつうま)の時にだけ、邸内の観覧が許された。太鼓橋の側(そば)にあった稲荷社は七色紙で綴(つづ)られた幟(のぼり)で埋められ、紅白の吹き流しにも、御泉水独得(どくとく)のフンイ気がうかがえた。

 今でも忘れられないのは、一年一度の邸内参人には草履だけが許されたことである。木製の履物は一切禁じられたので、その途中の道路には、草履を貸して呉(く)れる店も臨時に出来た程で、この泉邸開放は広島年中行事の一つであった。

(2017年7月16日中国新聞セレクト掲載)

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