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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十四)藁葺(わらぶ)き屋根のある家㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 泉邸の近くには、ワラぶき屋根のある家が昭和二、三年ごろまであちこちに見られた。上柳町や上流川町、鉄砲町にもこのワラ屋根が点々とあった。

 それだけに、このワラ屋根のある家に住んでいた人たちは昔からの広島人で、庭は広く、大きな松や庭石などがその家の古さにマッチした役割を果していた。

 退役軍人が住んでいる家も多く、町の風格としては封建色濃厚な、静かな落ち着いた通りが多かったと想(おも)う。人通りも少なくて、長塀に囲まれた家の一角には軍馬がつながれて、主人を待っている風景もよく見かけた。

 ワラぶき屋根がコッポリと亜鉛で包まれた家もあって、その亜鉛がコールタールで塗られていたのも、当時としてはモダンな風景だった。日の丸の旗が掲げられた日の、この界隈(かいわい)の和やかさが思い出される。栄橋を下りた上柳町一帯の屋敷町も、城下町特有の物さびた風情が感ぜられた。

 流川町の溝は幅二間(約三・六メートル)もあって、堀川町との境界線には下流川町の巡査派出所があった。鉄製の火の見やぐらには消火用のホースが無造作にかけられて、「蛇が腹をくだしたようだ」と、近所の口さがな人たちを嘆息させたものである。

 昭和初期には放送局前に謡曲で知られた豊島要之助、豊島豊兄弟の家もあり、ヴァイオリンのパルチコフもこの近くの家にいた。この家にならんだ石門のある家には、広島に初めて菊人形をもたらした佐伯三郎氏が住んでいた。

 そのころ草津に梅山があって、電車が開通する前は己斐からの客を乗合馬車で運んだものである。その後、電車が宮島口まで開通し、荒手新開の埋立地に佐伯氏の肝いりで菊楽園が設けられ、大正十五年の秋、ここでヒロシマ最初の菊人形を公開した。

 十二段返し、セリあげの大舞台装置も珍らしく、忠臣蔵の大序から討入りまでの場面転換は、広島中の人気を集めた。また、昭和三年の春には宇治電軌とのタイアップで、つつじ、きりしま(キリシマツツジ)人形の太閤記一代記も好評であった。

(2017年7月23日中国新聞セレクト掲載)

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