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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十四)藁葺(わらぶ)き屋根のある家㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 佐伯三郎氏は後に広島電鉄の倉田氏、多山氏たちと共同出資で五日市に楽々園を計画し、その企画なかばで病に倒れたが、いまでも同氏が名を付けた荒手の「月見ケ浜」と「楽々園」の名は広島人の記憶に残っている。

 菊のキモノを着た大型の博多人形が鳴物や囃子(はやし)につれてセリ上ってくるあの舞台も、いまは懐しい思い出で、上流川町に住んでいた佐伯氏も、所せんはがんす人であった。

 流川町と京口門通りが交差した角の家には刀剣商の山田将軍家があった。店先には緋威(ひおどし)のカブトも飾られ、磨きたての刀が硝子(ガラス)張りの箱に並べてあったのも、最近のことのように思われる。

 幟町に近い京橋通りには、数軒の骨とう店があった。店によっては、色とりどりの甲冑(かっちゅう)が三組も四組もあって、それらが具足箱にどかっと腰を下していた。鉄仮面のような黒色のマスクに、太毛の口ヒゲが植えつけられているグロテスクさも、その骨とう店でみかけたもので、大小数々のひょうたんがぶらさげてあった印象も忘れられない。

 藩政時代のこれら名残りの品々が、この表通りの店にハンランしていたワケで、ここに時代の流れがそのまま現れていた。

 流川町界隈(かいわい)で見かけた、あのころのワラぶき屋根のある家は、洋画家高畠達四郎氏が好んで描かれるモチーフそのままの風景であった。

 次に、毎年夏になると流川町や鉄砲町の街路で見かけた珍風景に、散水車がある。町に水揚げポンプが設けられて、箱形散水車をひいた人が、適当の場所に来るとカジ棒に取りつけられた綱を引く。すると車のタンクから勢よく噴水し、町内隈(くま)なく水をまいて往(ゆ)く。

 この人は毎年、朝鮮から海峡を渡ってこの町に働きに来た出稼ぎであるが、十年近くもこの町の散水役を担当したので町から表彰された。広島市の散水制度は大正五年にはじめられた。

(2017年7月30日中国新聞セレクト掲載)

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