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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十五)天満屋小路㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 胡町という名は三百五十年来の由緒ある町で、去年(注・連載前年の一九五二年)はその町が出来ての三百五十年祭が花々しく行われた。

 三百五十年前といえば慶長八(一六〇三)年で、福島正則が毛利氏から引継いだ城下町の区画整理を行なった年である。たとえばそのあたりの町が家中町(士分の者が住んでいた町)であったものを、町家町にして、近くに市場を移したり船着場などを企画した。その実例が、この胡町である。

 話はもともと西の十日市町からはじまる。雲州路にあたる十日市町は、昔、河上方面の村々からムシロ、ゴザ、竹の皮笠(がさ)、竹カゴ、あるいは青物などの品々がこの町の市にならべられて、毎月三日、三日、四日間、計十日の市が開かれたことから十日市町という名がつけられた。

 たまたま、福島正則の命令で、広島の東部でも市立ちをすることになって「市の町」が設けられた。そこで当時、十日市町にあった胡社を移して、これを中心に町の繁栄をやろうと「胡町」の名がつけられたワケである。

 この社を移転するには十日市町の米綿銭商の銭屋又兵衛、六年寄の松屋休巴(きゅうは)、それに当時この地で人気を集めていた女歌舞伎の清七という役者の三人が計画に参加して、慶長八年に「胡町」の市を始めたと言い伝えられている。

 また一説には、現在胡町在住の尼子勝吉氏の祖先が、吉田城にあった胡社を十日市町に勧請し、さらに東への「市の町」移転の時、銭屋、松屋とともに「胡町」に移住して今日に至っていると伝えられる。

 なお、胡座の移転に参加して、市の町のにぎわいをやった歌舞伎清七は広島の生れで(生れた町名については、そのメモを失った)、そのころ人気を博した女歌舞伎を「市の町」の開場に参加させたということは、一応うなずけるとおもう。

(2017年8月6日中国新聞セレクト掲載)

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