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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十五)天満屋小路㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 女歌舞伎といえば、元祖出雲お国の三百五十年祭が昨年(注・連載前年の一九五二年)、大社町で行なわれているし、清七とても時を同じうした女役者であった。

 広島出身の歌舞伎役者としては維新前、観音出身の立役坂東秀調、若女形の瀬川あやめがあったことを付記しておく。なお、胡町の誕生とともに、平田屋川一帯は新しい船着場が出来て一種の盛り場を現出し、新船場町といわれたが、後に新川場町と改名された。

 また胡町の誕生と同時に、西の十日市町につづく町を西引御堂町といい、胡町の隣りを東引御堂町と命名しているが、胡座の西から東への移動を機会にこれらの新しい町が出来た。

 東引御堂町から火の見小路を抜けると斜屋(ちぎや)町がある。この町名は斜屋という商家に因(ちな)んで付けられたもので、現在仏壇商が軒をならべている風景は、原爆後の一つの偉観である。

 出雲屋と言われた山県元兵衛氏の店には、店先に豪華な御みこしが数台並べてあったもので、屋根の上の大看板には、龍の彫刻が金網に包まれていたのも思い出される。

 このチギヤ町を西に行くと堀川町で、町内の般舟寺には、広島和傘の元祖と言われる傘屋右衛門の墓がある。

 そして、この寺の前を胡町へ抜ける小路を、天満屋小路という。この小路の胡町に面した西角にある天満屋かつの屋号に因んだものである。その向いの東角にあった本庄屋半兵衛と天満屋かつとは夫婦の間柄で、この小路を通称「夫婦小路」(めおと小路)とも言った。この小路については、明治三十四年の「広島独案内」にも、その由来が書かれている。

 この二つの名を持っていた小路も、現在は三十メートル道路となっている。

 芸道五十年の笛の名手土生健吉翁は、この胡町の生れで、胡子さん開設三百年祭、三百五十年祭にも、しゃぎりの手を貸したという。古着屋一辺倒の胡町は大正中期までで、現在はスッカリ町の面目を新しくして七色のネオンアーチに飾られた明るい商店街になっている。

 なお、秋まつりには町内の子供たちが赤鬼青鬼にふんして、歌舞伎清七時代の名残りを見せているのも胡町風景である。

(2017年8月13日中国新聞セレクト掲載)

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