×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十六)堀川町界隈(かいわい)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 かつての盛り場「新天地」と「八丁堀」の中間にあって、一応広島人から親しまれた町は堀川町である。天正十七(一五八九)年に毛利氏がカープ城をつくるとき、その石や材木を運ぶために西塔川と平田屋川を掘ったが、そのとき平田屋川付近に町家が並んで、このあたりを平田屋新町と名付けたのが町名の起りとされている。

 その後、この町につながる胡町、平田屋町、チギヤ町などとともに永年、町家街のにぎわいを見せたもので、明治十六年に刊行された黄表紙の「広島案内記」には、堀川町のくだりに荒木豊次郎の本願寺蔵版物を扱った書店がある(後年荒木楽器店となる)。

 また、高須喜兵衛氏の煙草(たばこ)屋、森タツ氏の研法館という訴訟鑑定所もあるが、西国筋まで知られた「本家とらやまんじゅう」の店は異彩を放っている。

 この本の銅版のさし絵には、店の黒のれんに、三本竹に虎の字の紋があって、家の前には珍しい街灯も二本立てられている。土間から二重の店にはたたみが敷かれて、中央の大看板には「まんじゅう所とらやまんじゅう」の額がすえてあり、向って左側にはボテ張りの首の動く大虎が飾ってある。別の釣り看板には「御むし菓子」と書いてあるのも、維新前の名残りがうかがえる。

 古老の話によると、この虎屋には、あのころ餅搗(つ)き専用にお角力(すもう)さんが雇われていたという。

 大正、昭和初期にかけてのこの店は、たばこをあきなった関係でか張ボテを奥に引込めたため、よほど注意して見ないと虎公にはお目にかかれなかった。ガラス越しに見えた白、黄のまんじゅうには茶色の焼印が鮮やかに刻まれていた。

 差し渡し五寸(十五センチ)ぐらい、八分(二・四センチ)近くの厚皮だったこの大まんじゅうは広島名物の筆頭ともいわれ、子供心に一度パクリつきたいあこがれのまんじゅうであった。

 明治三十四年の地図によると、この町内の店の記録には、うる平こと畑平造氏の諸漆金銀箔(はく)粉がある。これは作家畑耕一氏の本家であった。また、売楽一式の精々堂児玉英次氏、仏壇ならびに神社仏閣用具、金銀木杯賞牌(はい)商の永谷商店、同業亀屋の渡辺貞吉氏の名がみられる。

(2017年8月20日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ