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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十六)堀川町界隈(かいわい)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 時代が明治、大正、昭和につながる商家には、虎屋の前に油商中屋があった。別称中忠とも言った熊谷忠一氏の店で、美人顔の大看板があって、すみれ印のびんつけ油や小猪口(おちょこ)の口紅(いまの言葉ではルージュ)の製造販売元として、あのころの広島女性には忘れられない店であった。

 大正十年秋、盛り場新天地の開場にはあの大看板も屋根からおろされて、この店がブチ抜かれて新天地への西の花道が出来上がった。新天地開場にこの土地を提供した熊谷忠一氏のことは忘れられない。

 虎屋の隣りには救世軍支部があつて、制服姿の兵士がタンバリンを叩(たた)いて伝道をつづけていた。その隣りの本屋は広文館で、若き日の丸岡才吉氏が角帯姿で店に座ったことを想(おも)い出す。また、洋傘屋の水田はその隣りの家であった。

 町の曲り角には三階建ての鉄橋楼、その前には履物や果物を商った品川夫婦がいた。大正初期、堀川町中央勧商場の入口近くにあった陶磁器商の広谷商店も昔からの家で、天満屋小路側の店の屋根には大きな土瓶の看板があり、その向かいには大きなどんぶり型の看板も掲げられていた。

 この家は原爆で倒れた中国新聞の校閲部長広谷千代造君の実家であった。その隣りには広島野球界の元老山下憲吾君のみどり薬局があったが、同君もあの日の一閃(いっせん)で倒れている。

 般舟寺側にあった荒木楽器店は広島で最初にピアノを扱った店で、入口中央のショウウィンドウも珍しく、例の洋画家山路商君がこの楽器店風景をものして、二科展に入選して話題になった。その作品が原爆禍をのがれているのも、その後の話になっている。

 この町の叙景描写には、喫茶店やおでん屋がある。「梅園」や「アカデミイ」も古い名で、「すしホール」や「黄金ずし」、それに「金髪バー」の出現も、カフェー全盛期の昔話である。

 堀川町から新天地へ抜けるおでん屋横丁には、「五十三里」「づぶ六」「たぬき」が軒を並べて、カフェー帰りの彼氏彼女たちのたまり場であった。今の金座街には、あのころ森永や明治のチェンストアーもあり、中国料理の名井屋の二階建もあった。

 昔の話になると、胡町の古川酒店は春三月の節句には、白酒を売る店として子供たちに人気があった。その店に並んだ金座街角には、日本堂という大きな時計店があって、店の中央にあった帳場格子も大時代の名残りであった。この店の左小路は中の棚で、入口の中の棚橋は寛永年代(一六二四~四四年)からの橋であった。

(2017年8月27日中国新聞セレクト掲載)

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