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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十七)清丐(せいがい)太一の話・前編㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治末期から大正の初めにかけて、東部で見かけた物乞いといえば前稿でも書いた「八やん」がいる。骨と皮ばかりの長い足を出して、平塚町や京橋町あたりをさまよい歩いたもので、足だけの感覚では広島のガンジーと言ったところである。

 「がらがら橋」や「三本松」の歌を唄(うた)っては一本のゴールデンバット(注・たばこの銘柄)をもらっていた「いわん」は、広島かさの竹骨を削っていたので、みじめな印象はなかった(事実、彼はある寺の親切な人たちから、面倒を見られていた)。

 また「西郷さん」といわれた奇人は、いつも軍服を愛用して週番肩章をかけた五十歳くらいの男で、三篠橋東詰の土手に、かまぼこ小屋を建てて住んでいた。旗日には手製の日の丸の旗をこの小屋に立てていた。彼が最も得意だったのは、年一度の招魂祭の日である。

 彼は早朝から陸軍将校の礼装に身を包んでサッソウと小屋を出てゆく。金繍(しゅう)緑の肋骨(ろっこつ)服は騎兵のシンボルでもあり、行きずりの兵隊さんが西郷さんと知らず、思わず挙手の敬礼をする。その敬礼を受けるのが、西郷さんは何よりの得意であった。

 ある正月に見かけた彼は、羽毛の軍帽を被(かぶ)って堂々と本通筋の商家を訪ねて年賀回りをやった。さすがに大礼服着用の日の軍用金は、平日の二倍すなわち二銭であった。

 誰が「西郷さん」というニックネームをつけたかは知らないが、確かに西郷さんといった感があった。いうならば軍都にふさわしい軍服狂いであった。

 彼も永く広島に住んでいた名物男であったが、大正末期、彼の姿は見られなくなった。ところが最近ある友人から聞いた話によると、二十数年前、島根県浜田で軍服姿の西郷さんに逢(あ)ったという。これがかつてのヒロシマで、西郷さんと愛称された彼の最後の消息であった。

 真空地帯(被爆の焦土)の真相を知らなかった「西郷さん」は幸せな男であった。

(2017年9月3日中国新聞セレクト掲載)

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