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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十七)清丐(せいがい)太一の話・前編㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 「八やん」「いわん」それに「西郷さん」は、あの頃のがんす横丁を賑(にぎ)わせた「ん」の字のついた名物男であったが、今一人「太一」の奇行は今日でも広島人にいろいろ話題を残している。

 彼は体格が大きいだけに、見るからに奇怪な感じをあたえた物乞いで、頭髪や髭(ひげ)は長くのび、垢(あか)だらけの首は十七インチもあった。年中汚れ破れたキモノを着て、なわの帯を締めていた。もちろん素足で朝早くから東部方面のゴミ箱をあさって、捨てられた食物を手ですくって食べた。

 無声時代の映画、それも日活映画の時代劇で、ひげをのばした六尺豊かな巨漢が太刀を振りかざして大立回りを見せた俳優に、新妻四郎がいた。時として破れ着物で維新物の武士に扮(ふん)した彼であるが、太一の姿はその新妻四郎そっくりであった。

 この太一については、宝町居住の南画家稲田素邦氏の厳父九皐(きゅうこう)氏が大正十四年三月発行した「鶴鳴軒詩文鈔」のうちに「清丐太一墓表」の漢文が残されている。以下は稲田九皐氏の漢文を中心に太一の挿話をつづってみよう。

 太一が広島人であることは判(わか)るが、その姓や亡くなった時の年齢などは判らない。一説には広島の新川場町の生れといわれ、中学校まで通学したと言われる。継母に男の子が生れたために実家を飛び出したと言われ、その肉親の者が現に市内にいるとも言い伝えられている。

 それはそれとして、実家を出た太一は、例の姿でゴミ箱をあさり歩いた。たまたま彼に食べ物をやろうとして「太一、これをやろう」と言うと、「ワシは乞食(こじき)ではないから、いらん」と唯(ただ)一言答えて、みむきもしない。ほとんどの場合「それではここに捨てるぞ」と食物を地べたに置くと、おもむろにその食物を食べるのが彼の習性であった。決して食物を他人からもらいたくないというのが、彼自身の信条であったらしい。

 そして太一は夜、決して横になって眠らなかった。というのは、いつも何かにもたれて立ったまま寝ていた。しかも彼はいつも、三川町の広島裁判所正門前の土手にあった赤煉瓦(れんが)造りの共同便所をねぐらにしていた。

 そんなワケで、この共同便所はこの界隈(かいわい)の人たちから「太一の別荘」と言われた。この別荘はちょうど新川場町の向岸にあったもので、筆者たちの記憶にも、あの裁判所前の土手にあったイガイガのついたからたちの木が思い出される。

 あのドブ川の平田屋川に潮水がのぼってくると、その流れに乗ったゴミ取り舟がのぼって来た。その水の流れをじっと見つめていた彼の姿をしばしば見かけたもので、ドブ川の対岸には彼の生家があった。裁判所正門を黒塗りの囚人馬車がカツカツと音を立てて入っても、太一は生家の方ばかりを眺めていた。

 あのドブ川も大正四年には埋立てられて、セメントコンクリートの川場橋、竹屋橋、三川橋、樋の小路橋、上富士見橋などが出来あがった。

(2017年9月10日中国新聞セレクト掲載)

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