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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十八)清丐(せいがい)太一の話・後編㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 太一は寒い夜は、共同便所の中に入って立ったまま寝た。ある時、この太一の別荘前を通りかかった男が、用を足そうと入口の戸を開けると、誰かが首を縊(くく)っているようなのに肝をツブして、竹屋橋の交番所に飛び込んだ話は有名だ。暗闇の中に立ち寝の巨人の姿が、宙に浮いているように見えたこの男は、それが太一であると知らされて、胸を撫(な)でおろしたとのことである。

 あるとき、同じ竹屋橋の近くで太一は、ひものついた財布を拾ったが、その中にあった金を近所にいた子供たちに全部やってしまった。彼には金の魅力は何もなかったワケである。

 また、饒津(にぎつ)神社のあたりでも財布を拾ったが、いつもあたりの子供たちに全部を分け与えたもので、この光景を見た人たちは、欲のない太一だとその心根にうたれたとのことである。

 稲田九皐(きゅうこう)氏も、彼の清廉無欲の心情に動かされて、太一の死後「清丐太一墓表」を書いた。太一は元来身体が頑健で、どんな腐った物を食べても病気にかからなかった。決して他人から金や物をもらったことがなく(事実はもらうことを拒否していた)、もちろん盗み食いなどはしなかった。そこに他の物乞いとは違ったところがあって、一銭といえども金を持ったことはなかった。

 頑健そのものの彼も、ある日、道路に倒れてしまった。そこで土地の人たちは、彼を白島町の半田救護院に運んで薬を与えたが、彼は薬を受けつけなかった。周囲の人たちはいろいろと薬をのむように言い聞かせたが、彼は薬ものまず食物をもとらなかった。

 そして発病十数日後、遂(つい)に自らの息を断った。時に大正二年三月二日と言われている。年齢はハッキリ判(わか)らないが三十歳前後と思われる。死後彼の身体は解剖されたと聞いている。

 当時、県立広島商業の先生であった漢文担当の稲田氏は、広島人に愛された太一の死を悼んで「清丐太一墓表」の文を綴(つづ)って、饒津公園明星院の一角に石碑を建てることを計画した。それを知った先生の友人、渡辺勝三郎氏(当時和歌山県知事)は自分がその手続きをするからと、石碑建立の申請を東警察署長宛に送付した。するとこの申請が、広島県警察部に回送されたが、当時の広島県知事の反感を買って申請却下となった。

 この太一の碑を建てることについてゆくりなくも広島県知事と和歌山県知事との対立になり、そのことについていろいろな話題が提供されたという。

(2017年9月17日中国新聞セレクト掲載)

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