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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十八)清丐(せいがい)太一の話・後編㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 たとえば広島県知事としては、「清丐太一の墓というが、あんな不潔きわまる乞食(こじき)をうたった碑をなんがために饒津(にぎつ)公園に建てなくてはならないのか」。

 また警察側としては、「碑文によると太一は、竹屋橋畔や饒津の里でしばしば財布を拾い、その中にあった金をその辺りの子供たちに分けてやったとあるが、拾得物は一応、最寄の交番所に届出るのが常識である」。物乞いといえども拾得物横領の罪は構成するワケで、その碑文の意味は明かに正常なものではない。

 それに対して渡辺勝三郎氏は、「不潔な乞食というが、その心根は清潔そのもので、太一の行為が警察令による拾得物横領などと、今さらケチをつけることもあるまい」。

 こうした対立のいきさつの結果、稲田九皐(きゅうこう)氏は宝町の自宅の庭に畳一枚もある台石を置き、その上に高さ一間(一・八メートル)もある「清丐太一墓」の石碑を自費で建てた。この碑も八月六日の原爆で粉砕され、現在、比治山橋東通りに面した子息の素邦氏の庭に、その大きな台石のみが残されているのも奇(く)しき因縁である。

 この台石は当時、鶴見橋東側に住んでいた石工の松本荒三郎氏が太一の碑のために寄付したもので、この碑建立の総工費は、当時の金にして百数十円であったという。

 太一の性格を語るものに次のソウ話がある。彼は毎朝、新聞を見たという。あの別荘に立寝をした彼としては、早朝から町に出て、まず近くの家に配達された新聞を静かに引き出し、読み終ると必らずもとの場所に静かに返した。

 彼が新聞を読んでいたという反面は、彼が普通の物乞いとは違ったところをそのまま物語っている。読み終った新聞への扱いなどは、彼の性格がそのまま現れていたと思う。

 あのころ、達磨(だるま)の絵五万枚揮毫(きごう)を念願していた小川梁作氏(同氏もがんす横丁に入れたい人である)が、ある夏の日、太一に呼びかけた。

 「太一よ、暑いのう」

 すると、彼は「また、冬が来る」と一言答えてゴミ箱を漁(あさ)った。これは達磨氏と太一の禅問答である。また、ある人が饒津公園のサクラを見ていた太一に呼びかけた。

 「太一よ、サクラの歌がつくれるか」

 すると彼は「つくれるぞ」と、突差(とっさ)に次の歌を詠んだと言う。

 「桜花咲いちゃあ見ちゃあよけれども散っちゃあ見ちゃあことはない」

 「ちゃあ」は広島言葉である。饒津のさくらを詠んだこの歌は、九皐氏がものされた「清丐太一墓表」の漢文とともに、彼を偲(しの)ぶには格好な思い出草であると思う。

(2017年10月1日中国新聞セレクト掲載)

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