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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十九)弁護士通り界隈(かいわい)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 堀川町の広島中央勧商場ができたのは明治三十二年三月で、堀川町入口から両側に軒を並べた店は四十五戸。それぞれにたばこ入とか財布や、煙管(きせる)、ハンカチ、化粧品など小間物のタグイを売る店があった。そしてこれら店の列を縫うように、玉ころがしや人形落しなどの遊戯場が並んでいた。

 日曜日、祭日には、東遊郭を控えたこの勧商場は師団の兵隊たちでにぎわったもので、黒門のあった南入口を東西に抜けた通りは弁護士通りといわれた。この通りの東側は下流川町で、街角にあった長い白壁の寺は三川町の常林寺であった。

 福島氏時代の五輪塔の墓もあって、広島としては可なり古い寺であった。境内には真影流の達人岡七左衛門、六左衛門父子の墓や、槍術(そうじゅつ)家杉山龍右衛門の墓もあった。浅野堅物(直道)の妻、すなわち赤穂義士大石良雄の二女の墓もある。

 この白壁の反対側は下流川町と堀川町で、大正初期には東から順に弁護士岡崎礼次郎、河野暁、池田寛作、玉木次郎、植田寿作、横山金太郎(後に林飛隆善)、高野一歩、富島暢夫ら諸氏の家が並んでいた。

 横山金太郎氏は文部政務次官にもなり、後に広島市長となった。また富島暢夫氏は、代議士時代、議会壇上からの質問演説で「目クソが鼻クソを笑う」と反対党に一矢を報いた話が有名である。高野一歩氏は本職のほかに大正十年秋、大阪帝キネの山川吉太郎氏や平田屋町の永井林太郎氏とともに、文字通り夢の新天地開場に力を尽した人である。

 この通りには内科医の伊達辰之助氏、小児科医の多田氏、それに県警察医の香川卓二氏の家もあって、世間からは「弁護士と医者の通り」としてよく知られていた。これらのほかに河野暁氏の隣りには、愛宕町出身で大阪角力(ずもう)の幕内中軸まで取った越ヶ嶽の料理屋があった。たしか表通りまで松の枝がハミ出ていた料亭らしい家であった。

 その隣りが文学座の杉村春子(中野春子)さんが住んでいた家で、朝からピアノが聞えたこのお春さんの家の小路には、浅野家の謡曲師範、坂茂馬氏の家があり、勧商場入口には高瀬執達吏(執行官)の家もあった。

 そして各弁護士の邸宅はなかなかに立派で、本門からの石畳にはいつも水が打ってあり、石灯籠や古風の井戸も設けられて、四季とりどりの草花もみられた。

(2017年10月8日中国新聞セレクト掲載)

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