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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三十九)弁護士通り界隈(かいわい)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 各弁護士の邸宅のすがすがしい石畳を踏んで、サッソウたる白絣(がす)り筒袖の着物に白チリメンの太帯を巻いた白ゼン白髪無帽の壮士が、表玄関を訪ねていた。この壮士風の男は、当時広島の名物男と言われた「五大州統一論者」の杉原鉄城氏(佐伯郡宮内村出身)で、年二回ぐらい各家を訪ねていた風景は、弁護士通りに応しいシルエットであった。

 同氏が抱えていた風呂包の中には、西園寺公望、桂太郎、大隈重信、山本権兵衛など各総理大臣と肩を並べて撮(うつ)した記念写真帳が納められていた。

 通りの近くには、広島法曹界の先輩藤田若水氏や森保祐昌氏の宅もあった。この通りで忘れられないのは、戦争中、高野一歩氏の跡を継いだ高野一成氏が、日本移動演劇連盟中国支部長として自宅を演劇連盟の事務所と寮のために提供したが、昭和二十年八月六日の朝、寮にいたさくら隊の丸山定夫氏、園井恵子さんたち九名が、原子爆弾のために倒れたことだ。

 新天地での青い鳥歌劇団時代、シュミットボン作「街の子」の老音楽師にふんして初舞台を踏んだ丸山氏は、同じ新天地近くのこの弁護士通りで、さくら隊のリーダーとして最期を迎えた。奇(く)しきヒロシマとの因縁であった。

 堀川町のうちでも平田屋川に面した新川場町の向い側には、大阪時事新聞の支局があって、日本一周の自転車競走の中継所として当時の自転車ファンを狂喜させたのは、四十年も前の話である。

 その新川場町の一角には、広島音楽界の先駆者というより広島高師丁未(ていび)音楽会の生みの親、長橋熊次郎夫妻の家があった。原爆で亡くなった八重子夫人と、音楽家を志望した杉村春子さんとの師弟関係はこの弁護士通りを中心に、春子女史がサカンに先生宅を訪ねたことに始まる。

 新天地の南出口を抜けると、夏まつりでお馴染(なじみ)のとうかさんの近くには木製二階建の洋館があった。これは明治四十年十月から三川町に開校された私立フレーザー英語学校で、かつてはアメリカに出かけた人たちの思い出の学校であった。

 開校前はガラス工場であったとのことで、近くの山陽マッチ工場や新天地裏の石鹸(せっけん)工場とともに、この界隈はささやかながら小広島の工場地帯でもあった。いまや、これら三工場の敷地はいずれも三十メートル道路にされているのも、時の流れといえよう。流川筋の三川町側には、二十年前まで薩摩琵琶の名手といわれた田中断腸君もいた。

(2017年10月15日中国新聞セレクト掲載)

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