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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十)広島中央勧商場とキツネの話㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島中央勧商場が出来たのは明治三十二年三月で、小間物のタグイを並べた小店四十五戸もあって、玉転がしや、鉄砲打ちなどの遊戯店もこの四十五戸のうちに入っていた。

 この勧商場は堀川町、三川町、下流川町につながる地域にあって、北入口は堀川町、南入口は三川町、東入口には下流川町、西へ抜ける小路の出口は同じ堀川町であった。そして東入口から中央広場までは竹やぶの小路で南出入口は弁護士通りにつながり、ここには黒門があって、上には広島中央勧商場という文字を横に並べたペンキ塗りの大きな看板があった。

 この黒門は大時代のアーチであるが、新天地誕生と同時に取り除けられた。同じ黒門は、たたみや町寿座の左側にもあった。それが花街入口のシルシの役を果していたもので、この二つの黒門は昔流にいえば特殊な地域、すなわち盛り場の目印であった。

 勧商場の創立については、数人の人たちが資金を持ち寄ったと言われているが、一説には鍛治屋町の磯部清次氏が、中央勧商場の持主であったとも言われている。「がんす横丁」にたびたび市内のかつての勧商場のことが出てくるが、ここで予(あらかじ)めその系譜を書いておこう。

 最初は明治十五年三月に、胡子座、大黒座を中心に開設された中島本町の中島集産場、以下年代順に横町の商工倶楽部は二十二年五月、中島本町の中島勧商場は鶴の席を中心に二十五年四月で、次いで三十二年三月には栄座を中心にした堺町勧商場と八千代座を本尊にした広島中央勧商場、次いで三十五年六月には中島第二集産場、そして広島最後の勧商場は明治四十一年六月に出来た横町勧商場である。

 「とんち教室」めくが、勧商場とは文字どおり商をすすめる所で、これが別名では品物の集まるところから集産場ともいわれ、一つの娯楽場を取り囲んだ(芝居小屋や寄席)小店集団でもあった。今日の言葉でいう盛り場の前身を勧商場と言ったものである。

 八千代座は女義太夫の定席として生れたもので、その年代は判然していない。恐らくは中央勧商場のできた三十五年の六月に開場したものかも知れない。八千代座の隣りには稲荷さんがあった。筆者たちは、このお稲荷さんを中心に遊んだもので、左入口に建ててあった五尺ばかりの高さの自然石を思い出す。それには「正一位紅桃花稲荷大明神」と刻まれており、裏には明治三十一年十一月とも刻まれていた。

(2017年10月22日中国新聞セレクト掲載)

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