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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十)広島中央勧商場とキツネの話㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 「正一位紅桃花稲荷大明神」と石に刻まれた稲荷さんは、思うに勧商場以前のものであったらしい。一説には八千代座の創立と同時に般舟寺にあった稲荷さんを、この土地の守護神としてこの芝居小屋の隣りに勧請したものと思われる。

 ところが、中央勧商場もその後さびれて、四十五戸もあった店はほとんど空家同様で、大正元年ごろの筆者の記憶では、堀川町入口に永井という提灯(ちょうちん)屋さんが店を張って(この永井さんは後に新天地の西入口に洋品雑貨店を開いていたが原爆後の消息は知らない)、広場へ抜ける小間物店は二、三軒、それに玉転がし屋が一軒という殺風景な勧商場であった。

 せっかく勧請したお稲荷さんは一向に霊験あらたかでなく、八千代座も女義太夫をやめて活動写真に転向しなくてはならなかった。それが大正十年の春、新天地建設の工事がはじめられた。八千代座も打ちコワされて、稲荷さんも埃(ほこり)をかぶった。

 そんなワケでお稲荷さんは、八千代座々主、野田さんの養女にのりうつって、「吾(われ)こそは勧商場の稲荷なり。吾(わ)が棲家(すみか)が取りコワされては、往くところがないではないか。場合によっては近いうちにこのあたりを焼き払うから、そのつもりでいろ」というような意味を口走り、髪を振り乱して稲荷の近所を駆け回った。

 この娘さんは記憶力のよい方ではなく、柳座で作田連中の舞会(まいかい)に出て「白浪五人男」の勢揃(ぞろ)いで赤星重三を演(や)ったが、一向に台詞(せりふ)の言えない内気の娘さんであった。お稲荷さんはその彼女の口を借りて、御社を取りコワされるウップンを晴らした。

 果して三日目から取りコワしたが寝込んでしまった。彼女は三日間にわたって言いたい放題をしゃべりまくった。

 さすがに稲荷社前には三角型の油揚げが、うず高く積まれた。そして新天地建設の関係者は急にお祓(はら)いをやるやら、「先(ま)ず正一位さまを遷座しなくては」と急に盛大な遷座祭をするやらで、餅撒(ま)きまでが行われた。

 娘サンは数日後、正常状態にたちかえり、間もなくよくなったそうであるが、その後の彼女については知らない。稲荷サンは新天座前に遷座され、勧商場時代からの桑原老人がその面倒を見ていた。

 その後、この紅桃花稲荷は一昨年(昭和二十六年)、旧新天地を縦断した三十メートル道路の開通と同時に地元旧新天地人の丁重な計いをうけて、五十五年振りに堀川町般舟寺境内に還った。

 中央勧商場時代、下流川入口や八千代座前には竹藪(たけやぶ)があって、夜になるとこの藪から「ギャアギャア」というなき声が聞かれたもので、あれはキツネのなき声とも言われた。市の中央にあった盛り場ではあったが、あのころはキツネでもすんでいそうな寂しいところであった。

(2017年10月29日中国新聞セレクト掲載)

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