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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十一)新天地が出来る前の話㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島中央勧商場の広場にはかなり広い池があって、これが黒いサクで囲われていた。なかには数奇をこらしたあづまやがあって、築山には大きなサクラの木もあり、花の咲くころには紅白だんだらの幔幕(まんまく)も張られて、時ならぬ花見風景も見られた。

 なお、八重ザクラもあってボンボリもつられていた。それが初夏になると、三川町円隆寺のとうかさんの祭になる。浴衣の着はじめ、盆踊りの踊りはじめといったにぎわいは、広島の年中行事の一つであった。

 境内には見世物小屋も出来、のぞきからくりも数台並んで「俊徳丸」や「不如帰(ほととぎす)」の物語が人気を博した。後年、この円隆寺に赤穂義士、原惣右衛門元辰(もととき)夫妻の墓が発見されて、盛んな供養が行なわれた。

 そして、このとうかさんの祭を機会に中央勧商場の広場には、高さ五、六間(十メートル前後)もあった涼み台がこしらえられて、氷店もはじめられた。また、ろくろ首の小屋も出来、藪(やぶ)くぐりのお化大会もこの広場で興行された。

 また、明治四十四、五年ごろの夏時分に、同じ広場で水族館が公開された。この水族館は当時、大手町一丁目に自転車屋を営んでいた鳥飼繁三郎氏が建設したもので、新しものがり屋の鳥飼氏は、そのころ高さ十尺(約三メートル)もある特製自転車をこしらえて、屋根の上からこれに乗って市内を乗り回して市民を驚かせたこともある。

 後に東京に出て、津田沼で飛行場を経営して、天才飛行士山県豊太郎君を養成したもので、鳥飼氏のことは、重ねて大手町界隈(かいわい)に登場させたいがんす人である。「夢の盛り場」でも書いたことであるが、この水族館は世界一周のパノラマ応用で、勧商場人を喜こばせたものである。

 広島の夏の涼み場所としては、この中央勧商場、徳利小路の埋立地、御幸橋電鉄埋立場がそれぞれに涼を競った。

 同じころ、広場の池の上に板が張りめぐらされて大曲馬団が公開された。おそらくは広島最初のサーカスであったと想(おも)う。馬二十数頭ばかりが参加して、なかなかに斬新豪華な興行を展開した。大熊の珍芸や、アフリカから連れてきたシマ馬もめずらしく、自転車の曲乗り空中飛行、ブランコ、綱渡りなど多彩な番組がくりひろげられた。

(2017年11月5日中国新聞セレクト掲載)

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