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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十一)新天地が出来る前の話㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 一方、女義太夫の八千代座では年中無休の興行がつづけられ、入口に高く掲げられてあった豊竹栄昇の絵看板も懐しい思い出である。御祝儀「宝の入船」の掛合いは小屋の外まで流れてきたもので、黄色赤ブチの簾(すだれ)が拍子木の響きでスラスラとあがってゆく。

 花かんざしを差した蝶々(ちょうちょ)まげがおもむろに見台を離れると、紫色の肩衣がピンとあたりを払う。相三味線がデンデンとばちを当てる、燭台(しょくだい)のロウソクの灯がうしろの金びょうぶにゆれる。いまにして思えば、いいようのない明治風景のひとこまであった。

 大阪本場仕込みの豊竹栄昇は座長で、それについでは豊竹生駒が人気の中心であった。当時の女義太夫ファンであった人の話を聞くと、忘れられぬ語り物には栄昇の「忠臣蔵四ッ目判官切腹」、生駒の「重の井子別れ」があったとのことである。八千代座の前に立てられた幟(のぼり)、下足台につられた履物や、下足札に大きく書かれた「いろは」の平仮名の字にも、明治末期の郷愁がただようていた。

 女義太夫も時代の波に押し流されかけて、小屋も客足が止まって、しばらく新派劇が興行された。座頭は角藤定憲の一座にもいたといわれる森川源之助という女形で、かなりの人気を得たとのことである。

 まもなく女義太夫の興行が再開された。お茶子さんが座布団と火鉢を持って、大型の下足札をにぎった客を案内したあのころの風俗が思い出される。塩づけにしたさくらの花を浮かせたお茶が配られたのもなつかしい。

 その後、西の中島集産場に活動写真専門の世界館が出来てから、八千代座も女義太夫をやめて活動写真館としてスタートを切り、写真も「那須与市西海硯(すずり)」が上映され、栄昇がこの写真の動きにつれて、一段を語るといった演出が行われた。活劇ものには「水中美人」や「馬賊脱走記」が上映された。この広場の南入口には沢商会があって、招魂祭の自転車競走をえがいた大看板が掲げてあった。この店は、広島ではじめて模型飛行機の材料を売りはじめた店であった。

 また、勧商場の名物に大弓屋があった。流川口にあった前田、八千代座前の車山、南入口には山中と、それぞれの弓道場があって、山中はのちに西洋料理店となった。

 なお、広島最初の撞球(どうきゅう)(ビリヤード)場もこの広場の一角にあった。夏の納涼には、この広場に太鼓の前にある的を射つ楊弓(ようきゅう)店や、野天の浪花節劇場が出来たり、仁輪加(にわか)(即興芝居)の掛け小屋も出現した。そして夕方になると天ぷら屋が店を出して、するめの天ぷらが飛ぶように売れた。

 この勧商場の広場で忘れられないのは大阪角力(ずもう)の興行で、横綱大木戸も立派な貫禄を見せていたし、美男子の大関小染川も子供たちの間でなかなかの人気を呼んだ。柳井町にいる大鼓の川本喜善君の厳父は、広島切って角力ファンで土俵に飛び出しての声援も思い出される。

(2017年11月12日中国新聞セレクト掲載)

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