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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十二)新天地こぼれ話(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 新天地の二十五年史については、かつて「夢の盛り場」で一応書きつくしたので、本稿では専ら新天地こぼれ話を綴(つづ)ってみよう。

 新天地開場の大正十年の夏、中央勧商場の広場にいろいろと工事がすすめられていた。堀川町の油屋、中忠の店が切り開かれて、本通りから新天地へまっすぐの道がつけられた。ちょうど中忠前のあたりに体格の立派な、口ヒゲをたくわえた艶歌(えんか)師が夫婦で現われた。毎夜のように若い人たちの人気を集めていた。

 この艶歌師は艶歌をうたうよりも、当時の世相を批評したり、そのころの政治情勢を独得の話術でヒロウした。話に身が入ると持っていたヴァイオリンを忘れて右腕を振りあげ、あたかも新派の角藤定憲や川上音二郎がやったような世相批判演説が受けて、人によっては艶歌よりも、この演説を聞くために集るようになった。

 秋の新天地開場直後、日進館前の広場に面した家にすんで、艶歌をうたいながら相も変らず辻演説をつづけた。彼の名前は秋月四郎といって、新天地生え抜きの名物男であった。

 彼の家には多数の門下生がいて、数年後には遠く九州方面の玄人筋へも新天地の秋月四郎という名が伝えられた。その彼が、ある年の国会を傍聴中、議員の喧騒(けんそう)ぶりにフンガイして、破れ鐘のような声で「国会は動物園ではないぞ」と喝破して一躍勇名をはせて、広島の名物男にされた。

 「夢の盛り場」でも一度彼のことを書いたが、彼が新天地で病死したことを知りながら、そのてん末については知らなかった。ところが昨夏、呉市図書館であのころの中国新聞をみているうちに、彼の記事を発見してそのメモをとった。彼が関西人でありながら広島人になじまれた懐しさをしのんで「がんす横丁」の一人として、次のメモを加えたいと思う。

 昭和四年八月八日付の中国新聞(七日発行夕刊)紙上に「新天地の名物男秋月四郎君逝く」の見出しで次の記事がのせられている。

 「広島民政党院外団秋月四郎君は六日午前、心臓病のため遂に死亡した。同君は約十年前から広島に住み、夜の盛り場、新天地を中心としてその道で一本神農といわれ、今日の地盤を開拓し、また艶歌師としても関西ではかなり有名であった。民政党院外団として活躍しはじめたのは、早速整爾氏の死亡に伴う衆議院議員補欠選挙のころからで、第五十六議会におけるすばらしい弥次で一躍全国に名を売った男である。享年四十四。葬儀は八日午後一時から向西館で執行される」

(2017年11月19日中国新聞セレクト掲載)

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