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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十二)新天地こぼれ話(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 秋月四郎君の死後二十年、ゆくりなくも彼の記事を発見した筆者には、同じ場所で育った懐しさからこの一文を加える次第である。最近権威ある筋から発行された「流行歌歌謡曲便覧」を見ると、その九十四ページに「籠の鳥、作詩佃血秋、作曲塩尻精八」と書いてある。別欄には「籠の鳥、作詩秋月四郎(大正十三年流行)」と書かれてあるのも彼をしのぶ草である。「逢(あ)いたさ見たさに恐さを忘れ、暗い夜道をただ一人」と、新天地界隈(かいわい)人の感傷を誘った彼が思いだされる。

 彼の家の近くにあったマムシ屋や蛇屋、それにいろとりどりの衛生珍具を並べていた店もあのころの忘れられないもので、新天座近くのブロマイド屋や電気写真屋なども忘れられない広場風景であった。

 秋月君と対照的な新天地人として、南入口にあった汁粉屋「吉野庵」の隣りに高島易断の武田八州君がいた。なかなかの美男で、市政関係へもつながりがあったように聞いていたが、その後のことは知らない。

 また、新天座にいた清田君もこの界隈で知られた男で、左腕には肩からひじにかけてコイの滝登りの刺青(いれずみ)があった。ふとした機会にこの「コイ」の刺青を見た筆者は、同君が浪花節関係の芸人を紹介して来るたびごとに、この刺青の話をした。

 「いつ、この刺青をみられたのでしょうか」とたずねる清田君。そこで彼が新天座の舞台ハナで、左ハダを抜いているときにみたことをいうと「失礼をしました。とんでもないものが目に付きましたなア。若気のいたりで彫ったものですが、上方の彫りですよ」とみせてくれたものは、キメの細い彫りで刺された滝のぼりのコイであった。

 広島一中の歌に「鯉城の夕(ゆうべ)雨白く、花爛漫(らんまん)の色褪(あ)せて」というのがあり、五番目の歌詞には「三十六の銀鱗(ぎんりん)に」とあるが、彼のコイの鱗(うろこ)は三十六枚が完全に彫られていた。

 清田君はその後、大阪天王寺裏に喫茶店を開いているというので、同じ新天座で剣劇の小川隆が「日本最後の大仇討(あだうち)」を出した後、この芝居ゆかりの高野山の現地作木峠を訪ねての帰途にたずねたが、刺青の主は九州方面へ出かけて会えなかった。秋月君や武田君、そして清田君とも広島人ではなかったが、「がんす横丁」の住人になりきっていたようである。

(2017年11月26日中国新聞セレクト掲載)

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