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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十三)新天地こぼれ話(その2)㊥

文・薄田太 え・福井芳郎

 新天座での軍事劇公開のときには、観劇の兵隊は全部、階下のイスに座って、一般人には二階席が当てられた。これには次のような挿話がある。

 本稿のうち「明神座の話」で、同座が開演なかばに満員客の重量に耐えかねて二階が抜け落ちたことを書いたが、そのときの真相について南蟹屋町の荻野氏から次の葉書を寄せてもらった。

 明神座の二階が落ちたのは大正十年七月中旬で、昼席の軍事劇を十一連隊の兵隊が見物中の出来事であった。それがため負傷者を出したが、重傷者のなかには松本中尉、鍋島中尉があったとのこと。演(だ)し物については数日前、ある人から聞くと、例の京山若丸が読物にしていた、安芸郡矢野町での出来ごとを劇化した「召集令」であった。

 こんなワケで熊谷武雄一座の軍事劇を兵隊に見せるために、明神座の轍(てつ)を踏ましたくないと、かくは階下のイス席に兵隊を収容したとのことである。

 熊谷武雄は、久保田清についで大正十年十一月の広島お目見得であるから、明神座のチン事にこりた警察関係から以上のような客扱いが警告され、同時に連隊でも一般人を二階に置いてもらいたいと申し出たものである。

 次に、この小屋では京山小円、ベッ甲斎虎丸などの大看板のほかにも、天才初代・天中軒雲月などはなかなかの人気であった。卓を大きくたたいて、やがてそり身になっての雲月節調も、立派なしぐさを伴っていただけに忘れられない。幕切れに卓をすべて舞台に平伏する仕業も、彼独特な演出であった。

 彼はまもなく脳を患い、昭和五年であったか、「雲月を慰める浪曲大会」が盛大に行われた。伊丹秀子も雲月嬢といった娘時代で、結構七つの声を使いはじめていた。

 一行には、雲月嬢のほかに木村重友、木村友衛。重友が「折悪(あ)しく声を痛めていますので、後刻せがれ友衛にその埋め合せを致させます」と、よき親父ぶりを見せたが、当の友衛も先ごろ明治座で引退興行を打っているあたり、ここにも哀愁のときが流れている。

 友重親子のほかに松風軒栄楽、寿々木米若、宮川左近という顔触れの大会であった。後年、衰えの激しい雲月が博多の川丈座で舞台をながめている姿を同じ平場で見た筆者は、新天座時代の彼が飛ぶ鳥も落した程の、この上もない人気の中にいたことを思い出した。

(2017年12月10日中国新聞セレクト掲載)

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