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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十四)八丁堀界隈(かいわい)(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 「八丁堀」といわれるところは、かつての盛り場の別称で、元来の名称は「八丁堀筋」といわれた。鯉城(りじょう)の外堀のうち南丁上一番町から、中の棚橋近くまで南北八丁の堀を八丁堀といったもので、矢倉下からこの八丁堀へつながる堀もおよそ八丁近くもあった。これら外堀が埋立てられたのは、明治四十二、三年ごろであった。

 現在、矢倉下から八丁堀までの電車道は外堀の埋立地で、かつての八丁堀から泉邸近くまでの電車道も、外堀の埋立地であったワケだ。くわしい話は知らないが、明治四十二年、中島新町に資本金三百万円で広島電軌道株式会社が創立されて、市内東西を貫通する電車道が計画された。この電車道は外堀埋立地を中心に、白島行きの電車道として八丁堀筋の埋立地が利用された。

 外堀を埋めて電車を通すという協約が電軌道会社と広島市側との間で結ばれたことはモチロンと想(おも)うが、その詳報については省かせてもらう。以下、専ら電車が開通してからのことを綴(つづ)ってみたい。

 まず、広島駅と御幸橋間をはじめて電車が走ったのは大正元年十一月二十三日(一説には同年十二月八日ともいう)といわれ、八丁堀と白島間、紙屋町と己斐間は大正元年十二月二十三日に開通した。ついでながら御幸橋と宇品間は大正四年四月三日、左官町と横川間は大正六年十一月一日に開通した。

 そこで本題の八丁堀にもどすが、電車開通の前日であったか、旧福屋ビルのあたりに電車軌道のたまり場があって、その事務所の前にジャリを運ぶザルとツルハシを組み合わせたアーチをつくり、その中央に「祝開通」の額が掲げられていた。いかにもその工事を担当した人達の素朴な喜びが現れていた。

 この電車開通を機会に、現在の福屋の地点に、帝国館という活動写真館が出来た。西の世界館につぐ、広島で二番目に出来た活動写真の専門館であった。木製二階建の洋館で、階下はイス席であったのも、下足を預ける世界館や八千代座とは違ったものであった。

 二階の屋根にあげられた木村長門守の血判取りの図や、猛獣狩の看板は、例によってづぼら屋主人の筆。中心の美人絵とともに、いまもって忘れられない看板であった。

 この帝国館の前が電車の八丁堀停留所で、盛り場八丁堀はこの地点を中心に東へ発展していった。すなわち、西には道一つを距(へだ)てて広場があった。そこには例の通り、かつては広島のシンボルといわれた大きな柳があった。

 電車道開通前はここで常陸山、梅ケ谷両横綱の大相撲が興行され、埋立地には馬場が出来て、小馬に乗ったクワイ頭のお相撲さんの姿が思い出される。開通後からは、この広場にいろいろな見世物小屋や曲馬団のキャンプ、さては伊勢神楽などが姿を見せて、市民たちを集めた。

(2018年1月7日中国新聞セレクト掲載)

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