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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十五)八丁堀界隈(かいわい)(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 いま一度、大正元年十一月二十三日に広島に電車がお目見得したときの話になるが、開通当日は市内のあちこちにアーチや飾りものができて、朝から市内はモチロン、田舎からも電車見物の人たちが沿道をさまよい歩いた。

 それまで呉や岩国には電車が走っていたことを知っていた市民だが、さすがに開通を祝った花電車というものを見たのはこれが最初であり、夜になると色とりどりの電球で飾られた電車が京橋川の鉄橋を渡る風情は、そのままが〝川よ とわに美しく〟の一幅の絵であった。

 客が電車に乗ると、先客に対して帽子をとってあいさつしたり、ゲタを脱いで乗った客もあったとのことで、明治二十八年二月五日、広島市の横川と可部町との間に、わが国最初の乗合自動車が開業されたときと同じように、広島人を戸惑わせたものである。

 いまの稲荷大橋を風を切って走る大型電車を見ると、ヘッドライトを下につけた小型電車がモタモタとあの鉄橋を徐行した姿が思い出される。この電車は全部で十九台で、あの夜、八丁堀から稲荷町までを乗った筆者の記憶では確か一区三銭で、切符は通行税一銭の活字があったように想(おも)う。

 広島最初の百貨店、福屋が八丁堀角に出来たのは昭和四年十月一日で、四階まで運転されたエレベーターは広島人をびっくりさせた(最も、これよりさき紙屋町にあったみかど食堂には小型のエレベーターがあって、三階の催しもの会場まで客を運んだ。これが広島最初のエレベーターであったと想う)。福屋の場合はなかなかの前人気で、「一度乗ってみようではがんせんか」と、手弁当持ちの見物人がつめかけて、福屋は開店早々盛んな売れ行きで、四階の食堂も毎日満員であった。

 食堂のカウンターには、十日市町あたりの商家から通っていたという市女出身の美しい娘さんがいて人気をあつめた。彼女は大の阪妻(阪東妻三郎)ファンで、京都の撮影所に出かけて待望の阪妻と記念の写真を撮り、それが映画雑誌に出てから、このミス福屋はだれいうとなく福屋の看板娘と言われたものである。

 阪妻で思い出されるのは、こうした阪妻ファンの広島娘がいる一方には、「阪妻の映画に出たい」とついに彼のプロダクションに入って映画のうえで阪妻を相手に大立回りをやり、将来をしょく望された広島男に、実名は知らないが例の寿々喜多呂九平あたりが芸名をつけた鷲塚東吾がいた。

 鷲塚は一度広島に帰って東洋座の舞台から郷土人にあいさつをした。その後、彼の活躍が期待されたのに、好事魔多しのたとえにもれず、ある強盗事件に巻込まれて亡くなったように聞いている。

(2018年1月21日中国新聞セレクト掲載)

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