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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十六)八丁堀界隈(かいわい)(その3)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 有田洋行の話。これは旧福屋の福徳ビルが建てられる前からの話で、福屋の隣、いまの東洋座前にあるマーケットあたりが、八丁堀の広場時代であったころのものがたりである。

 有田洋行というのは高級サーカスの名で、広島に現れたのは大正二年の正月ではなかったかと思う。このサーカス団はこの年を手始めに、毎年正月にはこの広場に三回、もとの明治製菓の場所に二回、流川の勧業銀行のところへ一回、西練兵場に一回という具合に、何度きても同じ顔触れでスッカリ広島ファンとお馴染(なじみ)になった。

 三度目の来演には、サキソホンやコントラバスなどで編成した管弦楽団もあり、舞台では歌劇はやりの折から「おてくさん」の歌や「コロッケの歌」などがうたわれて、なかなかの好評を博した。

 最初の来演のときには、明道中学近くの堤防で、夕刊売り殺しがあった。筆者の幼な友達にFというのが家庭の事情で夕刊売りをやっていたが、ある晩、竹屋村近くの広場で怪しい男に首を締められたが、危く助かった。「どうして竹屋村の方に行ったのか」と尋ねた。するとFは「有田糸子の写真を切って歩いていた」という。有田洋行の豪華な辻(つじ)ビラの中にある自転車に乗った少女、綱渡りの有田糸子の姿を切りとって二十枚ばかりをバラバラと並べて見せた。

 彼が寂しい竹屋村へ出かけたのは、彼女の写真を切るためであった。それが途中で怪漢に首を締められたもので、いうならば彼こそ生命がけの糸子ファンであった。わずか十二、三歳の少年にしてこの恋情らしいものがあったワケで、有田糸子という美少女が子供たちの間で人気のあったのはこの辻ビラ一件でもよく判(わか)る。

 そのころの若い人たちはF以上の恋情を燃やしたもので、いまや五十歳前後の広島人には懐しい彼女の麗姿が思い出されることと思う。彼女は綱渡りは下手で、ときどき足をすべらして舞台に落ちた。その度ごとに彼女への同情というのか、慰めてやりたいといった声をFたちからよく聞かされた。

(2018年2月4日中国新聞セレクト掲載)

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