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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十六)八丁堀界隈(かいわい)(その3)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 キモノ姿の有田糸子が絵日傘を持って綱を渡ってゆく。そして一線上にきまったポーズの彼女が、おもむろにキモノを脱ぐときには、若い彼氏たちは妙な気になってかたずをのんでこの美女を見守る。まったくのところ彼女の人気は大したもので、二、三年後には一座のスターになった。立派に成人した彼女は輝くばかりの美しさを増して、等身大の写真看板はこの一座のマスコットとして飾られた。気品の高い写真であった。

 有田洋行は広島来演の度ごとに、相撲興行でもないのに高い大やぐらを建てて、青や赤の電飾灯をつけ、早朝からやぐら太鼓をとどろかせた。座長有田太陽の大魔術、有田夏子、朝子、糸子たちの水芸や奇術、動物の珍芸など、いまだに忘れられない楽しいサーカス風景であった。

 前にも書いたF君は薬研堀の料理屋の主人に納まっていたが、原爆にもめげず、今日では市内の東部で元気らしい。三年前に尾道駅前でキャンプを張っていた有田洋行をみたが、さすがに昔の面影はなかった。

 このサーカス団の本拠は高松市と聞いている。全盛時代の洋行も数度の火災に禍(わざわ)いされてゴ難の道をたどったが、戦後ようやくに立ち直りをみせていると聞く。

 同じ広場では大正六年ごろ、栃木山、大錦、鳳、西ノ海の四横綱の興行も行われた。天神町居住時代の中川出来太郎翁の肝いりで、番外取組として横綱栃木山に対する幕内力士五人がかりの一番が加えられた。最初に栃木山と対戦する山錦が土俵の輪に入り、あとの四人は四本柱から飛びつくというお好み相撲であった。五人のうちには山錦のほかに玉錦、清瀬川らの顔触れであったように思う。

 豪快な栃木山がバタバタと五人をなぎ倒した光景を思い出す。息もつがせぬこの取組みを、中川翁が正面桟敷から満足そうに見守っていたことも忘れられない。横綱への幕内五人がかりの相撲は、その後の広島では見られない相撲であった。

(2018年2月11日中国新聞セレクト掲載)

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