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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十七)八丁堀界隈(かいわい)(その4)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 この八丁堀の広場へは次から次へとタカ物がかかって、浅草本場の玉乗り曲芸や、改良剣舞、神代神楽などが見られた。そして昭和二年、木の香も新しい歌舞伎座が出現した。寿座にも劣らぬ立派な純日本風の劇場で、同年の十二月十八日、広島お馴染(なじみ)の中村鴈治郎一座を迎えてコケラ落しを行った。

 一行は鴈治郎のほか福助、魁車、長三郎、成太郎、鰕(えび)十郎、箱登羅、筵女、市蔵、扇雀、政治郎などで、演(だ)し物は「式三番叟」「だんまり」「三葉あおい」「土屋主税」「保名」「藤十郎の恋」「恋緋鹿子」であった。

 終戦直後、旭劇場に来演した当時の中村翫雀が「歌舞伎座の開場式には、高徳さん(寿座主)によばれて父と一しょに広島に来ました。お七に扮(ふん)した私が腹痛で苦しんでいるのをみた御ヒイキが、近所のお医者さんのところまで連れて行って下さいましたが、それがなんと小児科の先生でした。あれから二十年、今でもその時の先生のことを思いだしますが、親父(おやじ)さんビイキの広島のお客さんたちも、あの原爆で沢山(たくさん)亡くなられたことを思うと、お気の毒でなりません」と、あの日の思い出をたどりながら合掌した。

 次にこの劇場に来演したのは文楽座で、津太夫、土佐太夫、古靱(こうつぼ)太夫、人形は栄三、文五郎で「管原」の通しをみせてくれたもので、女歌舞伎の市川延見子、嵐三右衛門一座、それに東京名人会の神田伯山、高峰筑風、柳家小さんなどがこの小屋へ現れた。

 後に東洋座が改築中、仁丹の広告塔が立てられた歌舞伎座で東洋座移転興行が行われた。そして映画の合い間に三村珍文が「漫談」を公開したが、これが広島での最初の漫談というモノであった。

 頭がツルツルに光っていた珍文は、大阪の映画館でその漫談というモノでうけて、久しぶりに広島に帰り、歌舞伎座の舞台で皆んなを笑わせた弁士であった。

 同姓の三村羅風は太陽館の弁士で、彼もよく大向うを笑わせた、話術のウマイ男であった。かれはもともと東京芭蕉庵の宗匠で、東京ではかなり知られた俳人であった。煎茶、三味線、テン刻、骨董(こっとう)品の目効きも出来た風流人であった。

 また偽筆偽画の特技もあったという達者な男で、かれの挿話には川上音二郎にオッペケペイを教えた陰の人間というのがあった。また大阪で鴈治郎に「棚のだるま」という踊り、これは無言で座ったままの仕草(しぐさ)であるが、それを教えたのもかれであったといわれる。

(2018年2月18日中国新聞セレクト掲載)

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