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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十七)八丁堀界隈(かいわい)(その4)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 宗匠といわれた三村羅風がどうして広島に流れて、太陽館の弁士になったかと言うと、大正の初めごろ、厳島町役場の助役をやっていた河内一郎氏のもとに、トツゼン別府から羅風が姿を現した。俳人同士のことで、前から識(し)り合っていたのかも知れない。

 この河内氏は後に、俳号雨蓮洞に因(ちな)んで雨蓮堂という骨董(こっとう)屋を南町に開業したが、「売れんどう」と仲間の俳人たちから話題にもなったという。

 その雨蓮洞氏の紹介で、広島の書家稲田九皐(きゅうこう)氏宅を訪ね、そのまま数年間、同氏宅に居候をした。たまたま全盛時代の中村鴈治郎が広島寿座に来演の時、「棚のだるま」の踊りについて羅風にあいたいということになり、座主の高徳から使いの者がかれのもとに走って、久しぶりに羅風と鴈治郎との会見となった。

 そしてそれが機縁となって、羅風は高徳のはからいで太陽館の弁士となった。町中を歩くのに陣羽織にカサ、木太刀を差したいでたちで奇人ぶりを発揮したという。その彼は女嫌いで酒ものまず、甘い物が好きで、近所の子供たちによく菓子を買い与えたとも言われている。

 頭は前述した三村珍文同様に丸刈りで、映画の前説(まえぜつ)もよくうけて、当時の広島名士間でも風流人羅風の名はかなり知られていた。そして一部の好事家からは、骨董に対する鑑識眼も高く買われていたという。

 彼は弁士稼業中、鉄砲町のある二階を借りていた。極度の神経スイ弱症になって食事も摂(と)らず、ある日、饒津(にぎつ)の鉄道線路で自殺しようと現場まで出かけたが、堤防をよじのぼる途中、栄養失調のため力尽きて道路へ転げ落ちた。そして折よく通りかかった人たちに助けられて、白島の救護院に担ぎ込まれたが、間もなく清丐(せいがい)太一同様、同所で亡くなった。芭蕉庵の宗匠としては、あまりにも哀れな彼の最後であった。

 羅風はそれが俳号で、弁士稼業でもその俳号で押し通した。彼は広島人ではないが、広島をこよなく愛した男で、広島にきた当時は四十歳ぐらいであった。彼の放浪ヘキも消えて、がんす横丁に十年間も住んだ。

 しょせん一種の奇人であり、江戸ッ児(こ)であり、俳人、風流人であった羅風を惜しんで、彼を識る人たちの手で彼の遺骨は材木町の浄宝寺に納められたという。身寄りもなく、独り寂しく旅先で亡くなった三村羅風は、今でもかつての広島人の思い出の中に生きているが、人の情ほど、うれしいものはない。

 俳人の句をのせたいところであるが、その資料は何もない。後に彼の実弟が別府にいることが判(わか)ったが、その彼も役者稼業であったとのことである。

(2018年2月25日中国新聞セレクト掲載)

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