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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十八)中の棚橋界隈(かいわい)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 中の棚橋といっても、いまではなんの形も残っていない。いうならば橋のない橋の話になる。この橋は東魚屋町にあって、東魚屋町は通称中の棚といわれた。現在金座街に面して、道路も広くなって入口あたりは食べ物横丁の観を呈している。中華料理やフランス料理のショーウインドウもある。

 双葉映画館のある通りは旧魚市場の本舞台で、そのかみ一面の石畳みであった。幅一尺(約三十センチ)、長さ三尺あまりの石が敷きつめられて、石と石との間に水が溜(たま)って中の棚特有の情緒が流れていた。あの赤味がかった石畳みはどこに運ばれたのか、いまでは一枚としてその姿をみることが出来ない。

 二百数十年も前に、東部はいまの橋本町に一ヶ所、西部はいまの西魚屋町に一ヶ所、中部は東魚屋町に一ヶ所、都合三つの魚市場があって、東西二つの魚市の中間にあった東魚屋町を中の棚といったものである。

 この中の棚は一番レキシの古い魚市場で、元和五(一六一九)年、浅野長晟(ながあきら)が紀州から芸州入りをした際、御様御用を勤めた天満屋治兵衛と七右衛門がそのまま広島入りをして、東魚屋町に住んで代々魚問屋を業とした。

 その後、海田屋、周防屋、阿賀屋、吉田屋などが軒を並べたという記録がある。そして中の棚の中央には正一位稲荷があって、一年一度の祭りには、棚が乾かないよう、必ず雨が降るようにと祈った。すなわち、雨が降れば棚が濡(ぬ)れると縁起をかついで、商売繁昌(はんじょう)を願った。

 もっともこの祭りの日は、梅雨期に入っていたので、毎年のように雨が降って、中の棚人を喜ばせた。季節以外にはなんのトリックもなかった。

 この棚には、数軒の蒲鉾(かまぼこ)屋があって、三、四人の職人が大きな擂粉木(すりこぎ)を持って、それが動く度ごとに口笛を吹いて、店先の石臼と取組んでいた風景を思い出す。

 蒲鉾と言えば、天保二(一八三一)年創業を誇っていた天保屋が鷹野橋近くにあったとのことであるが、明治十一年、安芸郡焼山村出身の広岡源次郎氏が広島で蒲鉾製造を始めたのが、維新後の記録となっている。その後同業者も多くなって二十数戸もあったようで、明治二十五年ごろまでは「厚焼」「スダレ」などがつくられ、「板付」はその後に現れた中の棚作品である。

 昭和初期には、赤青網の目のアクセサリータップリの蒲鉾もできて、その技術を誇った「福有」という店がこの中の棚にあった。「サロン春」というカフェーが、この中の棚橋の近くに割り込んだのもこの頃で、橋の角の八百屋で「泥鰌(どじょう)」を売っていたのも、魚市場入口だけに皮肉な風景であった。

(2018年3月4日中国新聞セレクト掲載)

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